2012年5月25日 (金)

キセルの吸い方

Top_redたばこの極端な値上がりを受けて、わかばやエコーなどやや時代遅れの感があったたばこが、コンビニに当たり前に置いてあるようになった。そのうち「わかばマイルド」や「エコーライト」が出てくるかもね。

刻みたばこの値上げ率が低かったからか、キセルを吸う人もちょくちょく見かけるようになった。たばこなんて好きにやればいいんだけど、誰でも簡単に吸える紙巻きたばこと違って、キセルを上手においしく吸うにはちょっとだけコツがいる。うまくキセルを吸えなかったキセル初心者の頃のぼくが、当時キセル飲みの人に聞きたかったことを今回は書いてみよう。

さっそく、まずはキセルの部位の名前から。

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葉を詰める先のところを「火皿」といい、そこから「雁首(がんくび)」が延びて、竹につながる。この竹は「羅宇」と書いて「らう」とか「らお」という。そして、くわえる部分が「吸い口」。羅宇以外は、まあなんとなくわかるでしょう。

ではでは、刻みたばこをひとつまみ取りましょう(「小粋」など刻みたばこについてはのちほど)。

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それを火皿に詰める。

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この時に気をつけるのは、ギュッと詰めるのではなく、軽く詰めること。ギュッと詰めると空気が通りにくくなって、上手に最後まで吸えないし、最後の灰落としもしにくくなる。ほんとはもうひとこえ多く詰めてもいいんだけど、そういう「ちょうどいい加減」は追々覚えていくとして、慣れないうちは、どちらかといえば軽めに詰めるようにする。といい結果が得られる。と思う。のである。ぼくは。

さて、火を着ける。

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ほんのちょっと葉をあぶる程度で火は着く。キセルにライターは似合わないという人は、マッチでも炭火でもどうぞ。ちょうどキセルを覚えた頃に火鉢のある生活をしていたぼくは、その後、マッチ、オイルライター、発火石式ガスライター、電子式ガスライターと着火の歴史を後追いし、今ではターボライターとキセルのハイブリッド感覚。

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聞いた話で、銀の延べギセルに電熱器で火を着けようとしたところ、ニクロム線に火皿が触れた瞬間猛烈に感電し、衝撃が頭を直撃して失神した人がいたそうな。あんまりの横着は気をつけましょう。

さて、ぷかぷか一服。

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うまー。濃厚な味でうまー。小粋うまー。

吸い方のコツは、とにもかくにものんびり吸うこと。せいて吸うと舌を痛める。舌が焼けるというのか、舌先が痛くなって舌が荒れる。慣れないうちはどうしてもそうなりがちだけど、のんびり気分でそーっと吸うこと。パイプでも急いで吸うと舌が荒れる。道具を使うたばこはのんびりと吸うのが共通のコツかも。

吸うばかりでなく、時々ほんの少し吹き戻しをして火を保つようにすると、最後まできれいに吸いやすい。うまー。

葉をきつく詰めていると息が通りにくく、きつく吸うことになって、舌が荒れやすくなる。火も立ち消えしやすいし、灰を捨てる時にも捨てにくいし、と、葉をきつく詰めていいことはなにもない。

三回か四回吸ったらおしまい。最後のひと味が苦くて嫌な人はその手前でおしまい。そのあたりは好みで。

吸い終わったら灰を捨てる。灰を落とす、とも言う。灰を捨てる竹筒は「灰吹き」と言う。実際に灰吹きに灰を吹いたら灰が舞い上がって大変なことになるけど、キセルをくわえてプッと吹いてみると(外でやりましょう)、火皿から灰がヒュッと飛んでいく。なるほど、灰を捨てるのを「灰吹き」というのがよくわかる。

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時代劇では、勢いよくキセルを振り降ろし、灰吹きにカーンと当てて灰を落とす。しかし、ここで注意。確かに「勢いよくカーン」はいかにもキセルなイメージだけど、これはぜひとも避けたい。雁首が傷ついてへこんでしまう。やめましょう。ぜひやめましょう。

最後まできれいに吸えていないと、カーンと叩きつけないと灰は落ちない。きれいに吸えていれば、軽くトントンとやるだけで灰は落ちる。かつて炭火ぐらいしかなかった時代なら、立ち消えしたら火の着け直しが面倒で吸い残しのまま灰を捨てる、なんて場面がしばしばあっただろうけど(実際に、雁首のつぶれた使い物にならないキセルを古道具屋でよく見かける)、今やライターの時代、火を着け直して最後まできれいに吸えば灰離れもよく、「トントン」で落ちるはず。最後のひと味を吸わない場合は、吹き戻して燃やしきればいい。

ということはぼくもキセル党になって初めてわかったことだけど、キセルを初めて吸う人にキセルを貸して、最後に「カーン」とやろうとするのを何度止めたことか。何度やられたことか。コラーッ。古道具屋で買ってきて傷をきれいにしてピカピカに磨き上げたキセルにおのれはなんちゅーことを! このド素人がーっ。

と灰吹きでの作法を説明されても、ふつう灰吹きはないでしょう。となれば、灰は灰皿に。相手が灰吹きなら、竹と金属だからトントンとやっても雁首に傷はいかないけど、灰皿の場合多くは金属か陶器でできている。軽くトントンしても、雁首に傷がいくか灰皿が割れそうでこわいんで、手の平かプラスチックのライターなどで雁首を受けて灰を落とすといい。どうしても詰まったらマッチ棒かつまようじでかき出すべし。

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灰を捨て、再び葉を詰め・・・、を二・三回繰り返して、一服終了。さあ仕事、仕事。

 

 

キセル用の「刻みたばこ」はとても細い。髪の毛よりも細い。

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普通の紙巻きたばこをほぐしたもの(右)と比べると、その細さがよくわかる。ここまで葉を細く刻んで吸うのは日本だけだそうで、江戸時代からこんなに細く刻む技術があったというのは、刻み職人の腕もさることながら、刃物がとびぬけてすぐれていたかららしい。

とても細いので、キセルの小さな火皿に詰めても火が立ち消えせず、最後まで吸える。小さな火皿で吸うということは、ヤニの通らない葉を吸うことになる。お茶で言うなら一番茶。キセルはたばこ葉の一番おいしい味わい方だとぼくは思う。

たばこ入れの底の方になると、髪の毛状の葉がだんだん崩れてしまい、細かくなることもしばしば。

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でも、変わらずおいしく吸えるので安心を。

「小粋」や「宝船」の袋から直接たばこをつまんで一服するのもいいけど、家ではたばこ盆を用意するとそれっぽい気分になる。

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本格的な物を用意しなくても、適当な大きさのお盆にたばこ入れと灰皿(灰吹き)と火とキセルをそろえておけばいい。たばこ入れは漬物やつくだ煮を入れるような器がちょうどいい大きさだけど、フタ付きの物なら何でもいい。

上の写真のように、箱を適当に作ってもよろしいでしょう。ぼくは中学の夏休みの宿題でたばこ盆を作って(キセル用ではなく、普通のたばこと灰皿とライターを置いておくもの)、実家に帰った時は今も枕元に置いて使っている。ちゃんと作ればいつの間にやら一生モノ。

葉をたばこ入れに移して置いておく時、少し水分を与えるようにしておくと葉が崩れにくくなる。柔らかいと、まとめやすくなり火皿にも詰めやすいし、味も少しまろやかになる(気がする)。

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直接霧を吹くようなことをせず、たばこ入れのフタにつけた布を湿らせ、フタをして、半日も置いておくと、いい感じに葉が湿る。

乾燥したらダメというわけではもちろんない。そもそも携帯用のたばこ入れでは湿度調整ができないわけだから、細かいことは気にせずとも。

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「ながらたばこ」のできる紙巻きと違って、キセルは「ながら」がしにくい。キセルでの一服は仕事の手を休めないといけない。けれども、吸うためのひと手間も込みこみで、キセルは「ちょっと一服」にちょうどいい。キセルでのんびりプカプカやっていると、たばこは大人のたしなみ、大人の楽しみだとあらためて思う。でも子どもはマネしちゃだめよ。

という感じ。楽しく、おいしくやりましょう。

と、ここまで書いたら、なんかキセルの手入れの話もせんといかんような気がしてきた。味噌汁に漬けるとヤニが落ちやすいなんて話。アルコールを使うとヤニが溶けやすくてさらにいいなんて話。それに、布で作るたばこ入れの作り方(大正時代の「おさいくもの新書」という古本を買ってきて覚えた)とか、持っているキセルの自慢とかもしたくなってきた。

じゃあそういう話はまた今度。

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2012年5月22日 (火)

金環日食

Top_yellowきのうの日食の写真を少々。

 

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光量を下げるためにレンズの前にかざした日食グラス越しだとピントが甘くなった。この写真はだいぶマシなほう。数日前の真ん丸太陽での撮影練習では気づかなかったけど、欠けた角のあたりでよくわかる。安物だったのがいけなかった。もうちょっといいやつ買っとけばよかった。

 

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とか言っていたら雲が出てきて、カメラ(キャノンG12)単体で撮れた。こうなると評判のいいレンズの性能が十分に生きてバッチリ。雲がいい景色。 

 

 

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ほぼ赤影。赤影は月だけど。

このままいけば雲が表情を出して、観察にも撮影にもちょうどいい雲のかかり具合。

だったんだけど、メインの金環日食のときにはすっかり雲が切れ、日食グラスが必要になった。普通は喜ぶんだけど…。 

 

 
  

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ピントが甘ーーい。甘すぎる。ぼくがなんかの記録係だったら速攻クビだね。

目での観察(むろん日食グラス越しで)のほうも、乱視気味で輪がいくつにも見えた。うんもう、眼鏡も作り変えんにゃならん。

 

 

 

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太陽をあきらめて、木漏れ日を写す。

こっちの影を観てなかった人はいるかも。日食グラスを買えずにいた人はじかの観察をあきらめてテレビで見ていた人もいたようだけど、表に出て影を探せばこういうのが見れたはず。

日食を事前に知らされてなかったら、この影で「んっ、何これ?」と日食に気づくことになるんじゃないでしょうか。科学の力、広報の力。現代人はだいぶと情報で生きてます。墓参りに来ていた檀家のおばさんに「まだだいぶ欠けてますよ」と日食グラスを渡したら、「ああ、もう見た見た」と、日食よりも墓の壊れかけたロウソク立てのほうをよっぽど気にしていた。情報に踊らされない確固とした生き方。 

 

 

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木漏れ日が日食。 

 

 

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結局パソコンで作ったニセキンカンニッショク写真が一番きれい。

今回の撮影は練習ということで、次にもっと上手な写真を撮る自信につながった。明日にでも日食希望。日食はどうやら気象庁が左右できるようだし、お願い、気象庁。

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2012年5月15日 (火)

らいかろーりんすとん

Top_blue_2半年ほど前からフェイスブックを始めている。ぼくはこのブログを主と考えているので、あちらで書くものは左サイドバーの「編集中記」みたいなものが中心。必要とあらばむこうとこちらで同じ記事を上げるし、長文記事ならこちらで書いて、フェイスブックには「ブログを更新しました」と告知するだけ。というわけで、本当のぼくが知りたいなら(そんな人はぼくしかいないだろうけど)、こちらのブログだけで十分。

ただ、ここの「ココログ」では動画を直接記事に張ることはできない(はず)。ユーチューブとかに上げてリンクを張るしかない(多分)。フェイスブックは直接アップできる。その点はあちらの方が少し便利。

去年の秋にパソコンを買い替えてサクサクと動くようになってまず思ったのは、以前作った二十曲ばかりの曲をインターネットにのせようということ。でも絵が静止画ではつまらない(一曲だけとりあえずお試しがてらユーチューブに静止画で上げた)。かといって動画のためにイメージ映像を撮ったり、己の醜い姿のプロモーション映像を作るのもアホらしいしめんどくさい。

ならばと、パソコンに付属のウインドウズメディアプレーヤー(WMP)の、曲をかけると流れるムニャムニャ映像を、どうにかして動画としてパソコンに取り込んでみようとネットを徘徊してみたら、そうするための無料ソフトがあることはわかったけど、英語で書いてあったし、なんかまた新しいことを覚えるのはめんどくさい。

ならばと、WMPで曲をかけながらムニャムニャ映像をデジカメで動画撮影して、それをパソコンに付属の動画ソフト(ウインドウズムービーメーカーWMM)で編集することにしてみた。おお、これはなんと見事なデジタル機器とアナログ手法とのハイブリッド方式!と自画自賛。

で、できは上々。

作業していたら、WMMにはキャプションがつけられるとわかり、「お、これは字幕をつけれるな」と、歌詞をタイミング合わせてつけてみたら、さらにそれっぽくなった。うふふ。

というわけで、下のリンクからユーチューブへ飛んでいって、見てみてください。

曲はボブディランさんの「ライク ア ローリングストーン」に日本語詞をつけました。この名曲に日本語詞をつけて苦節十数年、こうしてようやく世界に発信することができました、では歌ってもらいましょう、歌手は鈴木知見さんです、どうぞ!

♪~らいかろーりんすと~ん~♪(五分半ぐらい)

いかがでしたでしょうか。このノリで他にも何曲か上げていくつもりです(全部この調子ではちょっと飽きるよね、きっと)。またよろしく。

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2012年5月12日 (土)

キンカンニッショク

Top_blue五月二十一日はまだなのに、もうキンカンニッショクが見れた!


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というのはウソで、日食グラスを超強力NDフィルターにして、金環日食の撮影の練習をした写真に、ちょこちょことペイントで修正しました。

買ってきた日食グラスは緑なのね。398円の安いやつだし文句はないけど。

でも、っぽいね、ぽいね、それっぽいね。

これで当日も安心。順調に撮影できることでしょう。曇っても、雨が降っても、寝坊をしても。

興ざめ野郎とでもなんとでもお呼びなさい。

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2012年5月 3日 (木)

誤解を恐れずに言えば

Top_yellow「誤解を恐れずに言えば、震災ガレキを受け入れないというのは東北を見捨てることと同じだ」。そうか、「誤解を恐れずに言えば」と言えば何を言ってもいいのか。いいことを教わった。ありがとう、細野豪志大臣。ということで以下、「誤解を恐れずに言えば」を適宜加えて読んでください。

ぼくの高校の卒業式の時の話。校歌斉唱の時、生徒から慕われていた音楽の先生がすっくと立ち上がり、
「私は今年皆さんとともにこの学校を定年退職します。そこで私から一つお願いがあります。実は校歌はみなさんが歌いやすいようにいつもキーを下げて伴奏してきましたが、今日は最後なので元の高さで歌いましょう」
と一言。校歌なんてどこも概して地味なものだが、この時ばかりはキーが高くなって歌に勢いがつき、また、先生への思いもあるしで、大いに盛り上がった。歌い終わって「シオハゲー!シオハゲー!」と先生のあだ名とともにヤンヤの喝采だったのを今でも覚えている。

ひるがえって最近では、日の丸校長のもと口元をチェックしてまで君が代をムリクリ歌わせる学校まである、と。卒業式や入学式に限らず、サッカーのワールドカップの時も、君が代で口がしっかり動いてない選手を映像で確認して「ケシカラン」と言った日の丸野郎な国会議員がいたらしいが、口元までチェックされて君が代を歌わされるのもシャクな話だから、もうこの際絶叫してみるか。白地に赤い日の丸服を着て、元気に叫ぼう我らが君が代。浪曲風やヘビメタ風もいいかもしれぬ。清志郎風にするならぼくも君が代を中指立てて伴奏したろうではないか。なんか文句あるか。

口元チェックにいそがしい人というのは、一糸乱れぬ北朝鮮のマスゲームやマンセーが相当うらやましいに違いない。北朝鮮が金体制を築き上げる時、戦前日本の天皇制を研究したという。しかしてそのあまりに完成された姿を見て、近親憎悪的に北朝鮮を差別するんだろう。

パワハラ市長をいただく大阪は、いまや立派な違憲特区。彼にかかれば原発問題さえ政争のネタレベル。尖閣諸島の購入で「政府にほえづらをかかす」とぬかす都知事といい、日の丸の小旗を持ってハシモトマンセー、イシハラマンセーとされたら思わずニヤリ、なんだろうなあ。

ところで、原発が止まって電力が足りなくなる恐れがあるのは、夏場の何日かの平日の昼間数時間。休日の電力消費量は下がる。電力消費量には産業用途が決定的な意味を持ち、家庭での節電は「しないよりまし」程度のもの。つまり、夏にバカンスを一ヶ月取れば原発なんてまったくいらない(し、そもそも必要もなかったわけだ)。

てなことを言うと、「それでは日本の経済が成り立たなくなる」と言う輩が出てきて、それにナルホドとうなずく人がいる。だが、現実に東北の経済がぶっつぶれても日本の経済が死んだなんて話は聞かない。被災地の外では昨日とさして変わらない今日を過ごしながら、なぜこんな簡単なウソにだまされるのか。経済成長神話に踊らされ、働け働けと言われその気になる人たちってば。こうなると勤勉精神も毒である。

ガレキ処理施設のフィルターの放射能除去能力を政府は文字通り机上の計算しかしておらず、フィルターのメーカーもまた放射能を除去できるかどうか明確に答えない。そんな中ガレキ処理の受け入れに賛成する人たちの物わかりのよさは、善意というより過ぎたお人好しのふるまい、放射能をなめている。

今あるガソリン車をすべて電気自動車に置き換えると、原発200基分の電気かいるんだそうな。つまり、電気自動車を大量生産する能力があったとしても、原発の立場が一転した今、化石燃料や自然エネルギーによる電気の飛躍的な増産を望めない以上、電気自動車を現実に普及させることはできない。唐突に見えるトヨタのガレキ受け入れに協力的な姿勢は、「原発との共存は可能」という裏メッセージの発信があると考えれば妙に納得がいく。

現実を直視すれば福島原発周辺はすでに捨て地だ。放射能汚染のガレキはそこに持っていくのが最も合理的だ。なのに、捨て地となった住民に「ババを引くとはこういうことです」と猫の首に鈴をつけることを政府も誰もしない無責任のあおりで、放射能を全国にばらまくようなムチャが通る。原発周辺地が捨て地にさせられるのはむろん差別の結果だし、許されざることだ。できれば誰も口にしたくはない(実際に現地では放射能や避難の話はタブー化しつつある)。だが、放射能に情は通じない。人間の都合なぞ関係ない。

原発を止めることは集団自殺するようなもの、らしい。そうおどされて無理心中に巻き込まれるんだね、ぼくたち。本音では原発維持を望む人の語る「脱原発依存」は、麻薬患者の禁断症状を見ているようだ。

子どもの火遊びよりタチの悪い原発。CRライター(「child resist」の略)とやらで毎日仏壇のろうそくに火をあげる年寄りを泣かすヒマがあるなら、「原発レジスト」で再稼動のボタンのバネを押せないぐらい固くしようではないか。

「3.11後」という言葉を聞くが、もしかしたら今は「第二次原発震災前」なのかもしれない。誰か否定できる人いますか?

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2012年3月29日 (木)

ごほうび

Top_blue日本たばこ産業から小包が届いた。ムム? ムムム?

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わーい、やったー。去年の秋、しこしことマークをためて応募したジッポー当たるかもキャンペーンに当たったー!

包みを開けると立派な木箱が。

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別の角度から。

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「NIPPON」か。そうかあ。

では、ではふたを開けましょ。

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おほほ、セブンスターのジッポー。「セブンスターは高校生の吸うタバコだて」と友だちに言われ、時にキセルやパイプ、最近は「わかば」と寄り道をしながら、愛飲し続けること二十数年。ようやくごほうびをいただきました。

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裏にはシリアルナンバーが。素敵heartheart

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どう?

ジッポーはしかるべき人が使わないとジッポーの方が主になってしまい、ジッポーに使われる人になりかねない。スマートに使いこなす自信がなくて、これまであんまり使ってなかったけど、これからはもっと使ってみよっと。

って、これだけウカれて、すっかり使われてます。とても使いこなせそうにない。ということで、これからもっともっと素敵なオジサマになろう。

ベビースターは今も母が生協でぼくのためにまとめ買いをしてくれていて、こちらもしこしこ懸賞に応募していたら、十年ほど前「どでかタオル」が当たった。

みなさん、想い続ければ報われるものです、たまには。

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2012年3月27日 (火)

心優しい人たちへ

Top_red作晩、繁華街のはずれを自転車で移動していたら、突然青年に声をかけられた。「すいません、お金を恵んでくれませんか?」

何ごとかと思ったら、手のひらの一円玉を見せながら、「もう七円しかなくて…。田舎から出てきて、いろんな町を仕事探して回ってるんですけど、家もなくて…。もう今のここがどこかもよくわからなくて、すみませんが、お金を恵んでくれませんか」。それは困ったことだとわずかばかりのお金を渡すと、問わず語りで彼は話し始めた。

「最近はコンビニに行っても残り物をくれることも難しくて、こうしてお金を恵んでもらって何とかしのいでるんですが、もうつらくて。便所もままならないので、いつでも野グソができるようにトイレットペーパーを持ち歩いてるんです」
と、おそらくどこかからこっそり持ってきたトイレットペーパーをカバンから出して見せる。
「その立場で生きていくには、ちょっとのことは仕方ないもんなあ。でもあんまり大きなことはしちゃダメだよ」
「はい。まあなんとかやってます」

貧窮死する人たちの中には生活保護という仕組みを知らないままの人もいると耳にしているから、
「生活保護って知っとる? 役所に行った?」
と言わずもがなのことを聞いたら、
「はい。役所の人に、『生活保護の申請はいつでも受け付けますよ。でも返事がひと月先になるので、住所がないとねぇ。でも申請はできますよ』と言われて。住所がないからどうしようもありません。警察も、交番で話を聞いてくれたおまわりさんに、『まあ、このままだったら野垂れ死にするか、犯罪犯すかだなあ』と言われまして。緊急避難所も、老人や障がい者の方が先で、もうそういう人たちでいっぱいらしくて入れてもらえないんです」

なんともはや。うわさ通りか…。担当が違えばもしかしたらもう少しマシな応答だったかもしれないが、これは運不運の問題ではない。

で、君いくつ?
「今三十四歳で、今年三十五歳になります」
「そうか、じゃあぼくとちょうど十歳違いだ」
「はあ。ぼく中学もロクに行ってないし、足し算引き算も指を使わないとできないもんですから。はあ、そうですか、十歳ですか」

「仕事を探しても車の免許がいることが多くて、でも免許は落としてしまって、再発行にもお金がかかるのでほっておいたら失効して…。(口元をニヤッとさせて)こういうふうで前歯もないもんですから、雇ってくれるどころか面接にもなかなかたどり着けないんです。住み込みで働ける所も、ぼく一人が応募するわけじゃないですし」

「親は小さい頃離婚して、祖母に育ててもらったんですが、祖母も両親も今は死んでしまって。田舎の家も今は別の家が建ってまして、帰る所も身寄りもないんです」

「毎日口にするのは『お金恵んでください』『弁当をください』ぐらいだから、人とこんな普通の話をするのも久しぶりなんです。なんかウツになってしまいそうで。こんなに話を聞いてもらって本当にうれしいです」

彼は多くの人が努力しないでもできることを、努力してもきっとできないだろう。話には多少色がついているかもしれないし、言いたくないことも言ってはいないだろうが、話を聞いていれば、気が弱くて押しにも弱そうで、いかにも詐欺や貧困ビジネスに引っかかりそうな人柄。だからといって、これはない。

ぼくの渡した金で一日、二日は何とかなるだろうが、ここでサヨナラというわけにもいかない。けどぼくもこれから用事がある。

「ぼくもこれからヒマだったら一杯ぐらいおごるんだけどなぁ。ね、今からどうしようねえ?」

しばらく考えた末に、
「よし、共産党の事務所に行こう。あそこなら君みたいな人の話もちゃんと聞いてくれるから、何か糸口があるかもしれない。とりあえず行こう」

とはいえ、ぼくもそのあたりは不案内の土地。家の者にネットで場所を調べてほしいと連絡した。

連絡を待つ間、「お寺さんはどうだった?」と聞いてみた。「いえ、お寺さんは厳しいです」

そうだろうなあ。

ここは自坊から遠く離れた地、京都。名古屋なら寺に連れて帰ったかもしれないが、それとて確信をもっては言えない。末端の個々の寺では何ともしがたいことがあるのは、ぼくも寺の人間だからよく知っている。ああ、教団としての力のなさよ、と今嘆いていても仕方がない。結局彼にぼくが僧侶であることは言えなかった。

「こんなに親切にしてもらったことはありません。ありがとうございます」と彼は言う。

「共産党ってそういうところなんですか」と言う。

そりゃそうだ、本当はこういうことは政府や自治体が責任を持ってやることだ。そうさせるためにみんな税金を払っている。でも政府や自治体がそうしないから、偶然の「人情」で何とかせざるを得ないのだ。こんな世の中、絶対に間違っている。

家からメールが来た。とりあえず事務所の連絡先をメモして渡したら、
「電話をかけるなら、電話代はご飯にかえたいんです。直接行きたいんで場所はどこでしょうか」
と聞く。携帯電話で場所を調べながら、携帯電話は便利だよねぇ、と言ったら、
「以前はプリペイド式のを持っていたんですけど、犯罪に使われたりとかで身元保証が厳しくなって、今はそういうのを手に入れにくくて」
と言う。

地図の検索ができたので、通りかかった人に「ここに行きたいんですけど」と聞いたら、「そこの通りを出た角ですよ」と。何たる偶然。
「君、ラッキーだなあ。事務所はすぐそこだ」

今立っている裏通りからから百メートルもない所に事務所はあった。「京都は共産党が強くてよかったなあ」と、事務所に連れ立って行った。ちょうど中から人が出てきた。

「突然ですみませんが、カクカクシカジカの事情なので、彼の話を聞いてやってもらえませんか」
と言うと、事務所の人もあまりに急のことなので、さすがに少し戸惑った感じ。

すると、遠くを指さして、
「あっちの信号を越えた所に交番があるから、一時避難所のことを聞いてみたら…」
と言う。晩の八時前、帰りがけであろうところに突然の話だからこちらも申しわけないと思いながらも、
「いや、もう彼は交番であしらわれて突き返されてるんです」
と、ぼくは(共産党の人だったらわかるでしょ?)と目ヂカラを込めてキリッと伝えたら、「ちょっと待っててください」と話を聞いてもらえることになった。ぼくはぼくで用事があるから、乗りかかった船とはいえ、いつまでもここにいるわけにはいかない。「押しつけるようで本当に申しわけないんですが」とお頼みすることにした。

別れ際、「こんなに親切にしてもらったことは今までありませんでした。ほんとうにありがとうございます」
と何度も言う彼に、
「これからまだ大変なことがあるだろうけどがんばってね。いや、あなたにがんばってと言うのは違うのかもしれんけど、本当はどう言ったらいいのかぼくにもよくわからんのだけど、いやなことがあっても、どうにかスカしながらつらい時が過ぎるのを待ってさあ…、なっ、天寿だけはまっとうしよ。それから、あなたの感謝の気持ちは、あなたに少し余裕ができた時に他の困っている人を助けて返してください」
と言って、もう少しだけお金を渡して、三十分遅れでぼくは用事に向かった。

用件が終わって酒席となった。いつものようにバカ話をする中、さっきあったことをひとしきり聞いてもらった。飲み屋での勘定が彼に渡した金額以上になった。少し情けなくなった。

ラーメン屋にも寄る。ラーメン代七百円も、彼なら三食分に化けるのだろう。

あの時コンビニで金をおろして十万円渡していたって、ぼくは明日から飯が食えなくなるわけではない。だからといって、そうすることが正解だとも思えない。でもやっぱりぼくはもう少し何かできたんじゃないか。彼一人の問題じゃないとはわかっていても、目の前にいた彼をどうすることもできなかった・しなかった自分が今さらながら情けなくなってくる。あのあと彼はどうなったのだろう。今日はどうしているのだろう。明日はどうなるのか。

オヤジ、今日のラーメンちょっとしょっぱいね。

「そういう立場になったのは、その人にも責任があるんじゃないか?」 話を聞いてくれた人の中にはそう言う人もいた。確かに、四十五歳と三十五歳の十歳差がわからず、前歯もない人間がロクな仕事にありつけないのはそうだろう。最低の生活を送らざるを得ないかもしれない。ぼくが人を雇う立場だったとしても彼のような人間を進んでは雇いたくない。

でも、だからといってそういう人を、こんな寒い空の下でホームレスにしてしまっていいのか。それとこれとは話が別だろう。世間の片隅に追いやって、「お金を恵んでください」と言わせてしまっていいのか。それは違う。絶対に違う。

「その人にも責任がある」と言った人も、ぼくが「だからといってホームレスはだめだ」と言ったら、「それはそうだな」と言ってくれたのはせめてもの救い。「人に声をかけられるだけ、彼にはまだ生きていく力はある」と言った友だちの言葉を信じよう。

蛇口をひねればお湯が出てくるこんなにも豊かな国なのに、この国では生きる能力、働く能力が少ないからといってホームレスにさせてしまうほどに厳しく生きていかなくてはならないのか? なんて貧しい根性なのかと思う。この国の豊かさのごく一部を彼らも享受すればいいだけのことなのに。

一機百億円の戦闘機の数機分、一隻一千数百億円のイージス艦をそろえる税金を使えば、彼らがホームレスになることはない。この国に戦闘機が何機配備されているか知っている人がどれだけいるか? そこから二機や三機減ったところでこの国の何がどう変わるというのか? そもそも憲法違反の戦闘機、戦艦、兵器をごっそり持ちながら、その一方で、憲法で保障された文化的で健康的な生活を送るという、人として当然の権利を奪い続けているこの国。彼はただ、住む所と、生活費を稼ぐ仕事がほしいだけなのに。

今はしっかりやっている人たちだって、仕事を失い、ケンカに巻き込まれて前歯を失い、あともう少しの不幸が重なれば、彼の立場なんてすぐそこだ。決して遠い存在ではない。

なのに、そんな彼らを世間の隅に追いやっているこの国の大人たち。貧困だけでなく障がい者や老人、在日、沖縄、原発周辺の人たちその他諸々の差別をすることと同じだと知りもせず、知ろうともせず、北朝鮮だ、自衛隊だ、消費税だ、君が代だ、日の丸だ、ハシモトだとバカ騒ぎを続けているこの国の大人たち。

遠慮を知らない十代の頃のぼくなら、こう言ったはずだ。
「なんだこの国は。バカな大人ばっかりだな。おれはお前らみたいな腐った大人になんか絶対になりたくない」

そうだよ、お前らのことだよ。

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2012年3月23日 (金)

本芸

Top_yellow_2吉右衛門、かっこいい。

これまで何度思ったことか。だってね、吉右衛門かっこいいんだもん。

中村吉右衛門の『俊寛』と『熊谷陣屋』を観てきた。去年坂田藤十郎の『法然』を観たあと、なんとはなしに、『俊寛』を吉右衛門がやるならぜひ観てみたいものだと思っていたら、この三月南座でやることを知り、これはぜひにも行かんにゃならんと、いい席を取ってかぶりつきで観劇。吉右衛門すごい、すごすぎる。あまりのすごさに、勢いに乗って翌日の昼の部の『熊谷陣屋』も観てきたという次第。

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というわけで連日吉右衛門さまを拝めて、もうおなかいっぱい。とてもいいぜいたくをしました。これからしばらくは、遊ぶにしてもひっそりと遊ぶことにします。

「興奮冷めやらぬ」とかというのとは違って、心が浄化されたっていうんでしょうか、今も気持ちがまだなんとなくふわんとしている。十数年前、ライブハウスの磔磔(たくたく)でシカゴブルースの御大ジミー・ロジャースを観た時、何度聴いたかしれないブルースカイレーベル時代のマディ・ウォーターズのドラマーとベーシストがバックを務めていて、興奮度マックスでしょんべんちびりそうなステージを観たあと、しばらくのあいだ気分がフワフワしていたのとおんなじような感じ。

とりあえずしばらくは他の感動で心を埋めたくない。

吉右衛門のことは、これまた十数年前、池波正太郎の時代劇『鬼平犯科帳』で好きになり(ありがちな話ですが)、長谷川平蔵を気取ってキセルを吸い始めるわ、ほとんど小説を読まないぼくが鬼平の文庫本を毎日一冊ずつ買ってきて読みふけるわで、すっかりハマってしまった。で、その延長で、『勧進帳』の弁慶を吉右衛門でぜひ観たいと思っていたら、そんなに間をおかず御園座でやることを知り、初めての歌舞伎鑑賞にのぞんだところ、案の定というべきか、同時に超弩級の芸を生で観ることになってしまったわけである。歌舞伎を知らないぼくでも『勧進帳』の話の筋は知っている。なのにそんなこととはなんの関係もなしに、吉右衛門演ずる豪快にして繊細な弁慶に涙してしまった。す、すごい、すごいぞ、吉右衛門。

『鬼平犯科帳』の舞台版も御園座で観たけど、吉右衛門が花道から出てきた瞬間、「き、吉右衛門、か、かっこいい…」と、レッド・ツェッペリンを見るような思い(見たことないけど)で見とれてしまった。しびれた。吉右衛門さま~。

今回も『俊寛』で出鼻から「かっこいいわぁ~」と見とれていたら、後半の立ち回り場面で、俊寛が融通のきかない瀬尾(中村歌六)をいざ切り殺さんと決めの姿勢をとった時、二人の対峙する延長線がまさにぼくの席。数秒の間(と思う)、倒れている瀬尾の後ろ姿越しに見た、真正面の吉右衛門のにらみ姿はもう一生忘れない。その後のクライマックスの圧倒的な演技も一生忘れない。感動で身が固まり、涙がにじんでしまった。

今回は歌昇改め三代目又五郎、種太郎あらため四代目歌昇の襲名披露も兼ねていた。三代目又五郎は以前の舞台やテレビの鬼平の与力役でも知っていたが、四代目歌昇は初めて。で、これがまたよろしい。声もしっかりしていて、見た目も艶っぽく、今後もっといい役者になることでしょう。と、お目当て以外のいい役者を知るのがこれまた楽しい。

『勧進帳』を観に行った時には他の演目で片岡我當が出ていて、もちろんその時観るのは初めてで、その重厚にして渋い演技に「この役者は何者なんだ」と思ったら、片岡孝雄(当時)のお兄さんとのこと。長男だから上方歌舞伎の大名跡片岡仁左衛門を継いでも文句はないのに、「弟の方がハナがあるから」と名前を譲ったと知り、こんなにすごい芸を持ちながら一歩下がるなんてすごいぞ我當、と、それから勝手に我當びいきになってしまった。いわゆる歌舞伎界の重鎮てやつですね。そういう風情が演技からもにじみ出ている。

歌舞伎はいい席で観ればそれなりに高いのが難点だけど、一級の芸を観ることはそれだけで一生モノ、考えようによっては決して高いものじゃない。歌舞伎ではないけれど、今となっては生で観られない桂枝雀の落語を観たことは、ぼくが偉いわけでもなんでもないのにぼくのちょっとした自慢。一級の芸を観るというのはそういうことだと思う。当代吉右衛門の芸は必ず語り草になる。のちのち百万円積んでも観れんものは観れん。

にしても思うのは、名古屋や京都、大阪、東京(博多も?)なんかの歌舞伎小屋がある所の人たちはもっと歌舞伎を観に行きましょう、とあまりにもニワカに歌舞伎づくボク。単なるミーハーだな。ミーハーでなにが悪いか。ミーハー上等! 近場に歌舞伎小屋がある当地の人たちはもっと幸せを感じましょう。って軽すぎるなぁ、おれ。

誰々で何々を観たい、誰々と誰々が同じ舞台に立つのを観てみたい、と思っていると、場所を選びさえしなければ案外観れてしまう。たとえば今度の六月の博多座では吉右衛門と仁左衛門が同じ舞台に立つ。どっかでなんかかんかやっている。もし観たいと思ったものをすべて観てまわったらソッコー破産、いくら金があっても足りやせぬ。金くれー。

いい席で観て劇場の臨場感を感じ取っていれば、テレビで時々やる歌舞伎を観ても、本物の舞台との埋め合わせができてよろしい。生の舞台は芝居そのものの臨場感もさることながら、音曲の臨場感がすごい。そういうのを想像力をたくましくして埋め合わす、と。歌舞伎に限らず、舞台はむしろ初心者の方がいい席で観るべきなんじゃないでしょうか。ニワカな歌舞伎好きのぼくは今のところ少々無理していい席をとるようにしていて、正直懐には痛い。なので、そうそうひんぱんには行けません。金くれー。

「○○屋っ」とかかるかけ声は二階・三階席の常連客からかかるものと相場が決まっている。ここぞという絶妙の間で声はかけるべきものだから、素人にはアンタッチャブルなところがあるけれど、今回ぼくは勇気を出して、しかるべきところで「播磨屋っ!(吉右衛門の屋号)」と後ろから声がかかった時、(はりまやぁ)と誰にも聞こえないように小声でこっそりつぶやいてみた。かわいいね、ぼく。とか言いながら、ほんとに感動していた瞬間には体が固まってそれどころではなかったけど。

今回の南座では片岡愛之助も出ていて、『元禄忠臣蔵』で主役の綱豊をたっぷり演じた。ワイドショーをちょいと騒がしていたんで名前は知っていたけど、舞台は初めて。で、これがまた、その芸の力がハンパでない。いいよ、いいよ、愛之助。

以前観た中村橋之助も、テレビでの「三田寛子のダンナ」という扱いなんて失礼千万、後継ぎのいない吉右衛門の名前を継いでもらってもいいんでない?(ありえんけど)、と思うほどにその芸はしっかりしたものでびっくらこいた。

てなことを知るようになると、この前までの海老蔵叩きの狂乱はほんとにただの狂乱でしかないことがしみじみとよくわかる。歌舞伎をロクに観たこともなく、「市川團十郎」の意味を知りもせず、気楽に海老蔵を叩くべからず。

愛之助や橋之助のような、テレビでは本芸を脇に置いて「芸能人」として見られている人の、舞台の上での「芸人」の姿を知れば、芸能記者やワイドショーのコメンテーターの物言いがいかに失礼にして不遜、傲慢なものかわかろうというもの。人気の裏返し、有名税というにしても、本芸を脇に置いたテレビや醜聞ジャーナリズムでの扱いには、芸への敬意がとんと感じられない。スポーツ選手も同様。

話がややそれるけど、本芸を脇に置いてどうのこうのする姿勢は、政治家に対して「人柄がよさそう」だの「はっきりモノを言う」だの「テレビでよく見る」だの「決断力がありそう」だのと、政治家の本芸である「政策」の中身とは関係ないことが評価の先に立つことに通じている。日本の有力政治家は本物の芸人と違って本芸で勝負しているわけじゃないから、その方が政治家にはかえって都合がいいんかもしれんけどね。

さらに話はそれるけど、最近のムダにして過剰な相撲叩きにしても、去年の震災後に被災地復興の勧進相撲を打てば、相撲は単なるスポーツではないということや、相撲の本当の力を世間に知らしめることができただろうに、この国の社会はそれを不可能にするような暴力を角界にふるってしまった。

いずれにせよ、本芸を脇に置くようなやり方は、上っ面にしてやせぎすのカサカサな社会しか生み出さない。



と、そんなことはさておき、吉右衛門はかっこいい。吉右衛門さま~。吉右衛門さま~。

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2012年3月 5日 (月)

ハシストさんたち

Top_blueこの春から学校で武道が必修化される。多くの学校が道具のいらない柔道をやるようだが、柔道は他の競技に比べ事故が極端に多い。なのに指導教員の養成もないまま見切り発車される。問題を指摘するニュースを見た人も多いだろう。

誰も触れようとしないが、これは安倍元首相の置き土産だ。彼の空疎な日の丸・君が代的信念の「伝統の復権」としての武道の必修化であり、教育基本法改悪と流れを一にする。無理が通れば道理引っこむの好例だ。今後取り返しのつかない事故が起きても、きっと彼はあの虚ろな目で早口に無責任な言い逃れをするのだろう(といっても、彼への取材を思いつく記者はいないだろうが)。

今の「一票の格差」は違憲状態だから選挙方法も含め抜本的な改正をするように、と最高裁の判決が出てもほったらかしであることに関連し、「首相の解散権に影響はあるのか」と記者会見で問われた藤村官房長官。

答えていわく、「解散権がしばられる規定はどこにもない」。そりゃそうだ。憲法も法律も選挙方法が違憲状態で放置されると想定しているはずがない(こんな底抜けのアホな答えをする方もする方だが、それをそのままスルーして次の質問に行く記者も記者だ)。民主党も野田首相になって一層はっきりしてきたが、しょせん同根、元々持っているあの「自民党的」な体質がごまかしきれなくなってきた。

小選挙区制が導入されて以来、政治の劣化はとどまることを知らず、報道機関も批判能力をどんどん失っている。

経済的な伸び代があった戦後なら前近代的な政治でもどうにかだましだましやってこられたが、経済成長の天井が見えたこの時代にこれまでの政治のままで世の中がうまく回るはずがない。そんな世の中の閉塞感のすきまをぬって出てきたのが、こともあろうに、国政レベルですでに失敗がはっきりしている新自由主義的な政治(小泉劇場のことですよ)の、何周か遅れの地方での躍進である。

ズハズバ物を言うとかで人気の橋下徹大阪市長のご活躍はメディアでたれ流されっぱなしでひどいものだ(似たような登場の仕方や手法から、ファシズムをもじって「ハシズム」という言葉もある)。彼がまだタレント弁護士に過ぎない頃、司法の基本原則「推定無罪」を理想論呼ばわりするのを見て、なぜこんな弁護士がテレビに出られるのかぼくは不思議でしかたなかった。本当の所は彼本人より、むしろ彼の出演を望むテレビ局や視聴者の見識のなさの方が嘆かわしいのだが(ハシモトはいつの時代にもいるが、戦争体験がまだ生きていた二十年前なら彼のような人物は間違いなく放送禁止レベルだ)、その後の政治(正確には、テレビの中での政治)での彼の人気ぶりを見るにつけ、「この国はすでに終わっている」という感慨が深まるばかりだ。河村名古屋市長の「南京大虐殺はなかった」という暴言にも、その後市に寄せられた意見の四分の三が市長の発言に好意的な物だったという。

歴史も知らず、政治教育もロクに受けないで大人になった人たちの政治判断とはこういうものなのだろう、やはり。

最近は何かといえば「維新だ」「開国だ」とうるさいけど、これってこの国では、庶民の関与がほとんどなかった明治維新の頃と変わらない庶民の意識のままで今もまだ物事が動いているということなんでしょ? そう理解すれば、復古調に満ちた「維新」の意味もよくわかる。

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2012年2月 5日 (日)

貧乏人のねたみ根性

Top_yellow気持ちよく温泉につかっていたら、水着を着た人がドカドカ入ってきた。なんでなんで? このまま湯ぶねから出たら、もしかしてぼくの方が恥ずかしいの?っていう気分。

消費税増税の前に「自らも身を切る」とかで話題の「議員定数・歳費と公務員給与の削減」案。増税に反対でも、これには九割近くの人が賛成だとか。なんでなんで?

議会に送り出している自分たちの代表が減らされるのになんで賛成? 増やしこそすれ、代表を減らされてなんで賛成なの? 議員数が多いから財政赤字が増えたわけでなし。

大体からして、「官僚主導から政治主導へ」ともっともなことを言いながら、数を減らせば一人あたりの仕事が増えるのに、議員の主導する力がどうして今より増すというのか。定数が減っても使えない議員の割合が減るわけでなし。

歳費削減にしても、歳費全額を議員個人の給料と誤解している人が少なくないようだけど、歳費は個人商店の売上げと同じで、そこから店賃や仕入れに当たる事務所費や政治活動費が支出される。個人の給与分はその残余だ。

むろん過剰な手当もある。歳費に見合った仕事もせず、観光バスで支持者を伊勢神宮に連れていくような議員を見れば「歳費を減らせ」と言いたくなるのもわかる。が、歳費分の仕事をさせるのが本筋だし、安い歳費では、結局、資産家や安定した所得のある人しか議員になれなくなる。無産者でも議員になれるための、いわば参政権を保障する費用としての歳費は一体いくらが適正か、そこから現在の歳費が多いのか少ないのかを論ずるのを、ぼくはとんと聞いたことがない。

身を切られるのは、実際は自分たちの代表である(はずの)議員の力をそがれるぼくたち有権者だ。

それでも賛成って、あれですか、やっぱり議員を自分で選んだ自覚がないからなんですか? 政治家は所詮「むこう」の人であって、彼らに「こちら」の気持ちはわからないとグチりながら、そのくせ「むこう」に政治をまかせっぱなしという人ごと感覚。ロクでもない議員はいらないって、そりゃそうだけど、それってあなた、自分たちの代表たる「こちら」の議員を選び出そうという自らの責任を忘れた主権者意識の欠落でしょう? 違う? 違ってたらすみません。

公務員の給与削減も、これがまかり通れば次に続くのは、「公務員も給料を減らされたんだから、民間の私たちも我慢しましょう」とノタマう賢い経営者連のお言葉である。最低賃金を時給千円にしようという労働者の当然の要求も夢のまた夢。高い方にではなく、安い方に合わせる低値安定の年金と生活保護の悪循環が、賃金の場面でも再現される。

公務員の選任、罷免の権利は国民にある。そんな憲法の最初の方(第十五条)に書いてあることも知らず、公務員を「むこう」の人として扱う主権者意識の欠落。教員の数さえ足りていれば二十人学級なんてすぐにでもできようものを、たくさんの空き教室がある学校を見て、なんとも思わないのか。

自分より少し上の人間を引きずり降ろし、彼らが右往左往するのを見て喝采するのが、どうやら今のハヤリらしい。名古屋や大阪の選挙や政治を見てそう思う。相撲も歌舞伎もロクに見たこともないのに、今日は相撲、明日は海老蔵……と日替わりにタタく姿を見てそう思う。あまりにも無節操な公務員や組合タタキを見てそう思う。自身を引き上げるのではなく、人を引きずり降ろす。

ぼくはとても口汚いから、こういうのを見ると「貧乏人のねたみ根性は始末に悪い」と思ってしまう。なにも貧乏人が悪いと言いたいのではない。経団連を見れば金持ちのねたみ根性も手に負えないとつくづく思う。ただ、今この国では「絆」もどこ吹く風、貧乏にさせられている人たちが共に闘うべき「99%」の人の足を引っぱり、あげく自分で自分の首を絞め、事の解決を遠のかせてばかりいる。そうした流れの中での議員歳費や定数、公務員給与の削減への賛成九割。

さて、少しのぼせてきたし、湯ぶねから上がろう。水着の人たちの中を恥ずかしがることなく、いや、いつも以上にブルンブルンとふりまわしながら出ていくとするか。

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2012年2月 2日 (木)

ビジネスチャーンス

Top_blue今や宗教的な習俗といえども、金もうけと結びつかなければ忘れ去られる。

バレンタインもクリスマスも新たなお祭りハロウィンも、うまいこと商売につなげたからこその盛り上がり。節分に豆まきだけでは物足りず、恵方巻きという新たな商品を作り出した業界は立派なものだ。商売の盛り上がりが、そのまま習俗としての盛り上がりと比例している。「お正月」さえそうなりつつある。

その点、四月八日の花祭りは、甘茶かけではいかにもインパクトが弱い。そもそも甘茶まずいし。これでは商売にならん。

けど、ここで何かいい商品をひねり出すことができたなら・・・。

ここはぜひともコンビニで扱える物がよろしい。四月八日にはビッグビジネスが転がっているような気がする。ビジネスチャーンス・・・。

てなことを考えるのは、なにもぼくがナマグサだからでは決してなく、一にも二にも一僧侶として、お釈迦さんの誕生日がみんなに忘れ去られていることを嘆いているからです。決してナマグサだからじゃありません。決して。

なまぐさいのは、ぼくよりもずっと世間のほう。

 

ただし、これは民営でやっている宗教の話。税金でやっている天皇教は、この財政赤字の御時世に皇族を増やそうかと大盤振る舞いだ。

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2012年1月12日 (木)

記録物

Top_blue_3こないだ耳掃除したばっかだっちゅうに、こんなに大きいブツが取れた。

Photo_3
(読者から強い抗議があったので、丸部分をぼかしました。元画像は下のサムネイルをクリックすると見られます)
1cm


久々の大物。

なんか、こういうのって取っときたくならへん? ぼくはなります。

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2012年1月 9日 (月)

ロックしています

Top_blue去年の秋にパソコンを買い替えた。それまでのが何をためこんだのか、動きが重くて重くてギリギリに動いているふうだったんで、買い替えたらそのあまりのサクサクさに、気持ちいい~。三か月ほど経った今もまだ、気持ちよく動いている。

で、このパソコン、もうひとつ気持ちいいことに、立ち上げた際のログイン画面が大変によろしい。

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「satomi ロックしています」

真島昌利が『RAW LIFE』で「俺は死ぬまでロックする」と歌った時、「俺も、俺もっ!」と誓った1992年のあの日。

ようやくこのパソコンだけは認めてくれたんだなぁ。

わたくし、ロックしております。

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2012年1月 6日 (金)

テロ・スリ・防犯カメラ

Top_blueあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。いい年になるといいですね、と去年も言って大震災。

正月に同居人の実家へあいさつに行ったとき見つけました。

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テロとスリを同列にする大阪交通局の感性にシビレました。思わずパチリ。

監視カメラと言うか、防犯カメラと言うか、それでその人の立場はわかるものです。ぼくは監視カメラと言う側。と、プチイデオロギー論。

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2011年12月13日 (火)

ピグノーズの改造、もしくは生まれ変わり

Top_redピグノーズは単三電池6本で動く小型アンプ。エリック・クラプトンがレコーディングで使ったとか使わなかったとか。『461オーシャンブールバード』の「マザーレスチルドレン」だったかな。確かにそれっぽい。

少しこもった感じの太い音が出て、なかなかによろしい。「Pignose=豚の鼻」ということで、ボリュームつまみが豚の鼻。ブヒッブヒッていう感じ? なんじゃそれ。まあどうあれ、ボリュームを上げれば、家で弾くにはうるさいほどでかい音で鳴く。ブヒーン。フルアップで歪ませれば、古いロックやブルースなんかがよく似合う。ブヒブヒーン。

Pignose

ぼくのはもうだいぶと前、二十年以上も前になるかな、に買った物。すでに中身は別物になっている。

何年か前、ぶっ壊れて音が出なくなった。中ブタを開けて見たら、トランスを使った回路で、ぼくにはよくわからない。うむうむ、全然わからん。

トランスを使ったアンプの回路図を一度見たことはあるけど、ああ、全然わからん。壊れた所を探ろうにもわけがわからず、修理のしようがなかった。こういうとき普通は楽器屋に持ってくのだろうが、そこはそれ、新しい回路を作って組み込むことにした。

まず、キース・リチャーズが絶賛の「スモーキーアンプ」によってエフェクター自作派の中で有名になったパワーIC「LM386」を載せてみたんだけど、音量が小さくて、全然面白くない。これじゃ豚の鼻でなくて、ねずみのチュウ太郎だ。こんなんいらん。

「386」のステレオ版的位置づけの「2073」をもっとも音量の稼げるBTL接続で組み上げた回路も、もっと小型のアンプとしてなら十分に大音量だけど、ピグノーズの音量にはとてもかなわず、却下。

そこで、いろいろとネットを探ってみたら、「LM386」の親分のようなIC「LM383」(「TDA2002」「μPC2002」が同等品?)がどうやらとてもパワフルらしいとわかり、さっそく大須で買い求め、データシート(はここをクリック数回でゴー)に載っている回路(4ページ目の「Typical Application」の「Single Amplifier」)を組み、ごっそり載せ換えた。部品もオリジナルのピグノーズと違って、わずかに7・8個。楽ちんね。

Lm386_2
で、いざ試し弾き。

ワオッ。

友だちのピグノーズと並べて弾いてみたけど、音量はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ小さいものの、まったく遜色ない。そして、音色はまごうかたないピグノーズの音である。車で言えばエンジンを載せ換えたようなものなのに、音はピグノーズ。ピグノーズの音は回路よりも、箱の方がヨリ影響しているのではないかと思われる。

もうこれは改造というより、別のアンプを作ったようなものだけど、まあなんでもいいや。よいよい。

で、改造ついでに、知らないうちにスイッチ付ボリュームが回って電源が入っているのを防ぐため、入力ジャックをステレオジャックに換え、プラグを挿していなければ電源が入らないようにした。ボリュームポット自体も換えた。いじっているうちにバツバツ切れてしまうリード線も全部取り換えた。アダプタージャックもよくあるエフェクター用の形状のに換えた。それと、どこでどうなってそうしたのか忘れてしまったけど、出力端子から線を取っ払った(ので、拡張性はない)。って、もうこれ、スピーカーと箱以外全部変わっとるがね。

それはそれとして、この手のものは一般に、入力をバッファーで受けると音がしっかりするものだ。けど、この生れ変わりピグノーズはデータシートまんまの回路なので、少しばかり音が弱っちい。音に腰がないと言おうか。これは電気的に言うと、インピーダンスマッチングが取れていないとかという話になる。キーワードはロー出し、ハイ受け。「インピーダンス」がインピー踊りやインピー箪笥でないことはわかっているけど、このあたりの話は難しい。何度聞いてもよくわからない。

いわばプリアンプ部のないギターアンプ。このままでも誰も気づかないだろう。箱が同じでオリジナルの音と似ているわけだし。でも、オフにした電子スイッチ式のエフェクターをつなぐと(これはバッファーを通った信号になっている)、誰でもその差がわかるほどに音の「力」が違う。もしかしたらオリジナルはこっちの音に近かったかもしれない。

このまま「このアンプはこういう音です」と押し通してすますこともできるけれど、作った者としてインピーダンスが合ってないのは気持ちが悪い。うむむむむ。

なによりも、バッファーがないと、アンプ直の時にギターのボリューム操作が難しい。10からちょっと下げると、音量が急に下がって使いにくい。インピーダンスの奴め。うむむむむむむむ。

というわけで、このたび、エフェクターの入力部でも時々見かけるFETを1個使った超簡易バッファー回路(下図参照)を入力部分に足してみた。何年ぶりかの再改造。

3

部品4つを基板の余白に組み込んで、さて、いざ試し弾き。

うん、もうバッチリ。バッファーの効果全開、パワーが増強され、しっかりした音になった。電子式スイッチのエフェクター(オフ時)を通したのとおんなじ。歪んだ音にも腰がある。ギターのボリューム操作も自然な動きになった。なぜたったこれだけのことを何年もほっておいたのかというぐらいの改善ぶり。

さて、ここで気をつけられたいのは、バッファー回路にはジャックから直接つなぐこと。線を2本足すのをめんどくさがって「ジャック→ボリューム→バッファー」にすると、バッファーの御利益はほとんどない。最初そうつないで、「??? なんも変わらんね、なんで?」と疑問符の嵐が吹いた。「ジャックからバッファー」の順番、これ大事。字面がジャック・バウワーに似ていて覚えやすい。ここらがインピーダンスをよくわかってない人間の限界である。インピー・ダンスでひと踊り。

Photo 

それから今回ついでにやってみた抵抗の差し替え。これは、先のデータシートの回路図の、ICの右から2本目の足から出ている抵抗の値を220Ωから大きくすると、例えば560Ωや1KΩに変えると、歪み量が増す。なぜかは知らない。歪むものは歪む。ギターアンプで言うところの「ゲインつまみ」を上げているのと同じ感じ。
(追記:回路図をよく見たら、負帰還をいじる部分なので、正にゲインを調整する抵抗でした。と、わかった風な口をきいてみる。)

前に改造した時、おそらくぼくはそのことに気づいていて、ここの抵抗の所がソケットピンになっていたので(偉い、偉い)、今回あれこれと抵抗値の違う抵抗を差し替えて試してみた。560Ωにするとよく歪んで、それはそれで気持ちいい。1kΩにすればさらに歪む。そのあたりは好みでご自由に、といったところだ。

で、あれこれしながら、結局元の220Ωに戻った。ぼくにはこれがちょうどいいのだ。と、前にも思ったのであろう、きっと。

もしこうした改造をされる酔狂な人は、ここをいろいろと差し替えて試してみると楽しいでしょう。しかるべき抵抗値のボリュームポットにして、歪み調整つまみにするのも面白いかもしれない。

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さて、あらためて弾いてみる。

うーん、もうバッチリ! オリジナルのピグノーズを最近弾いてないから元の音をはっきりとは覚えてないけど、これだけでかい音がすればもうなんでもいいや。

Photo_3
もっと音量を稼ぎたいなら、電源電圧を上げると手っ取り早い。たとえば、あと電池を2本足して12Vにすれば、少し音が大きくなる。このICは20Vまでいいようだから、まだだいぶと上がるはず。スピーカーがどこまで持つかは知らないけど。ぼくの持っているアダプターは電圧可変式なので15Vまで上げてみたけれど、おっほほほほ、でかいでかい。

音がでかすぎるというなら、電圧を下げればよい。電圧を下げると小さい音でもよく歪むから、家で弾くには音が大きすぎるという人には、かえって使い勝手がいいかもしれない(スモーキーアンプにすればいいのでは、という話はさておき)。

電圧が上がると、アンプ部の余力が増える(「ヘッドルームマージンが大きい」とか言うらしい)ので歪み量は多少減ることになるが、でかい音が欲しいなら電圧を上げればよろしい。 音量が上がるのはいいけど歪み量は下げたくないよぉと言うなら、さっきの抵抗値をいじればいいんじゃないでしょうか、多分(メンドーなので、もうそこまで確かめてはいない)。

ところで、ピグノーズにエフェクター用のアダプターを使うと、ひどいハムノイズが出たりすることがあるけど、それはアダプターの供給できる電流量が少ないから。これだけの音量を出すにはそれなりの電流を使うものなので、しかるべき容量のアダプターを使うべし(「専用アダプター」とうたっている物はエフェクター用の物より大電流が取り出せる)。

電源ついでにもう一つ。ネットを見ていると、角型の9V電池仕様にしたい人がちょこちょこいるみたいだけど、単三×6本より電池の持ちも悪けりゃ単価も高い角型電池にしたがる理由がよくわからない。単三6本分のスペースが十分にあって、しかも単三6本の方が大きな電流が取り出せるのだから、9V電池にするメリットはほとんどない。単に「コンパクトな9V電池は素敵な感じ」というだけなら、この場合ピグノーズには筋の悪い改造だと思う。

考えてみれば、単三は4本包装で売っているのがフツーだから、12V=単三×8本なら、2パックで2本余らすことなく使えて、ちょうどキリがいい。よし、今度電池ケース買ってきて12V仕様にしよう。さすればきっと最強のピグノーーーーズになる。ブヒヒヒヒヒーーーーーン。

・・・・とか言っているうちに、電池ケースを買ってきてつけちゃいました。ひとまず端子をショートさせといてこのまま9V仕様。今の電池を使い切ったら、次は新品8本装着します。

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今回の記事は、ピグノーズの改造というより、パワーアンプIC「LM383」の記事かも。オリジナル回路を尊重しながらの改造を求めてこのページに来た人にはすみませんでした。

それと、「LM383」はとっくに廃番になっているらしく、多分入手は困難。でも、先にも書いたように、ピグノーズは回路よりも箱の方が音をかなり決めていると思われるので、これと似た性能のパワーICなら、オリジナルと音ががらりと変わることはないはず。

サンプル音源をユーチューブにあげました。ここをクリックしてゴー。

アンプつながりで、高出力小型アンプ「ZT ランチボックス」について書いた記事も紹介しときます。ここをクリックすると該当記事に飛びます。

追記

「歪み調整つまみ」を追加しました。上記回路図の丸で囲んだ220Ωを100Ωに変え、1KΩのボリュームポットとつなぎ(計1.1KΩ)、ポットを、使ってないプリアウトジャックと付け替え。0にすればクリーントーンの調整域拡大。最大ボリューム時にこのツマミを最大にすると大層歪みます。音量が小さくても歪むというわけではなく、歪みが欲しければ音量を上げなければならず、使い勝手はワンボリュームのアンプとほぼ同じです。15V供給すると、もうそれはかなりの音量で、いずれどこかでスピーカーを飛ばすかICをいわすかしてしまいそう。

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2011年12月 5日 (月)

死の街は死の街だ

Top_blue原発事故の警戒区域である福島県南相馬市を取材したニュース映像を先日見た。現地には普通に入れないので、記者が知人の一時帰宅に付添うという形での取材だ。

(ここをクリックした先に、番組サイトのバックナンバー/写真と文。ここをクリックした先に、音声がずれて見にくいが、ニュースを一部録画したものがアップされている/約15分)

防護服とマスクで身を包んだ住民と記者が車で移動をするが、車外の風景には町の中心部でも特別な作業車以外、人影がない。通りに面した商店や家は地震で壊れたまま、津波に襲われたままほったらかしにされている。原発事故さえなければガレキをどかし、家の建て替えも進んでいたことだろうに、人影はない。交差点の信号も消えている。

原発に近づくほど放射線計の数値は上がり、浪江町に向かう山道の途中、警告音が出るよう設定した毎時50マイクロシーベルト(以下Sv)をとうとう超え、けたたましい音が車内に鳴り響く。

この数値は換算すれば年間400ミリSv以上になる。法律で許容される人工放射線(医療等以外)の上限被曝量が年間1ミリSv。小佐古内閣官房参与(氏は原発を擁護し続けてきた「原子力村」の科学者)が、震災後政府の決めた安全値は高すぎると抗議の辞任をしたのが年間20ミリSv。汚染地域の除染目標は年間1ミリSv以下である。どうあれ、毎時50マイクロSv≒年間400ミリSvというのはとんでもない数値だ。

記者たちはここで折り返したが、原発はまだずっとこの先8kmのところにある。一体どれだけの範囲でこの警告音は鳴り続けるのだろうか。地震や津波の被害が少なく普通の田舎町や山村と変わりないように見える所でも、このあたり一帯でまともな生産活動や日々の暮らしはとても送れそうにない。

先年亡くなった評論家加藤周一の文章に、広島の原爆投下後、若い医師の一人として氏が被爆地に入った時の話がある。自分たちが移動する音以外、虫の音もしない異様さについて語っていたくだりが印象深い。原爆は人や建物だけでなく、虫をも一瞬にして殺したがために、炎天下を進めども進めども、何も音がしなかったという。

暑いさなか虫が一匹も鳴かない静けさは、被爆地の風景の異様さに一層拍車をかけたことだろう。被爆後の広島や長崎の写真を見れば、人も家も何もないのはわかる。しかしそれだけでなく、そこには音もなかった。被爆地を出れば普通に鳴いている虫の音がしない。写真からだけでは想像しにくいその異様さをぼくは加藤周一の文章によって知らされたが、原発震災での同じような異様さ、目に見えない放射能の怖さを、今回の映像──特ダネではないが、大メディアの記者が現地に入らない今、貴重な映像である──はあらためて伝えてくれた。

草木や地面に線量計を近づけると、ぐんぐんと数値が上がっていく。軒先の雨どいの下に線量計を近づけると、数値がはね上がる。見た目が普通と違わないだけに、かえって恐怖感は大きい。

残念ながらこの地は死の街である。鉢呂経産大臣が「死の街」発言で言葉狩りに会って辞任させられて以降、テレビや新聞ではこの手の発言がピタリと止んでしまったが、人影の見えない当地が死の街であることは確かなことだ。

「死の街」は事実であって、不謹慎でもなんでもない。不謹慎というならそれは、死の街を現に生み出してしまった原発と、それを必要だとしたイデオローグと彼らのウソに乗っかった産業構造、そして、だまされていたとしても結局はこれらを支えてきたぼくたちこそが不謹慎なのである。

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2011年12月 3日 (土)

へぇボタン

Top_blueかつての名番組『トリビアの泉』のへぇボタンを買いました。リサイクルショップで180円。

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最初見かけた時は、家にガラクタがひとつ増えるだけと思い、買わずに帰ってきたけど、「おれが買わな誰が買う」と思い直して、あらためてきのう買ってきました。

フジテレビ公認グッズ。バンダイ製。番組ホームページ(はこちら )にも載ってました。

へぇ、へぇ、へぇ、へぇ、へぇ。

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2011年11月23日 (水)

革の煙草入れ

Top_blue革で小ぶりの煙草入れを作りました。

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横の刻み煙草『小粋』と比べれば、そのかわゆい小ささもわかるはず。って、小粋なんて全然有名じゃないよね。

 

 

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これまでにも革の煙草入れはいくつか作ったけど、革裏、つまりスエード地は刻み煙草がくっつくんで、初めて裏に革を張ってみました。バッチグー。しょせん素人仕事ですけど。

革を張るのはG17のようなボンドを使うのが普通(みたい)だけど、失敗してもなんとか取り返しがつくように木工用ボンドでやった。案の定、最初の張り合わせで生乾きの時、試しに革を折ってみたら、内側の折り目部分がシワでグニョグニョ。失敗。水にさらしてボンドを溶かし、張り直した。乾けば木工用ボンドでもなんら支障なし。

あと、布の縫い物では形を整えるのにアイロンをかけるけど、革の場合木槌で叩く。柔らかい革だったからか、気持ちいいほどに形が決まって、気持ちいいほどに気持ちよかった。板ではさんでクランプで締めつけたら、さらに気持ちいいほどに形が決まって、さらに気持ちいいほどに気持ちよかった。

にしても、小さい革製品は裏返すのが大変。難儀こいた。

それと、小粋はやっぱりうまい。キセルを用意して、長谷川平蔵を気取ってみんな(大人のみ)も吸おう。

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2011年11月11日 (金)

201111111111記念

Top_blue2011年11月11日11時11分にアップップ。

900年前ならもっとよかった。もしくは9100年後。

ということで、9100年後にもお会いしましょう。

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2011年11月 5日 (土)

どの一点でも

Top_yellow原子力は人間の手に余る。新聞で見かけたある作家の言葉だ。原発がいかに人の暮らしに合わないか、原発震災以降続くニュースであらためてよくわかった。

放射性廃棄物の最終処理は、ガラスで固化した廃棄物を地中深く埋め、その後10万年もの間、人を近づけないように管理が必要だという。今回の事故で原子力発電は「未来の発電」の立場を失ったが、わずか数十年の電力のためにこの先10万年管理が必要だなんて、その電力で得られる富のために10万年ツケを払い続けるだなんて、こんな不釣り合いな話があるだろうか。

10万年と言ってもピンとこないが、では10万年前の人類は何をしていたかというと、25万年前アフリカに現われた現生人類ホモ・サピエンスが、ようやくアフリカ大陸の外へ出始めた頃らしい。兄弟種のネアンデルタール人が滅んだのが3万年前頃だというから、いずれにせよ10万年とはとてつもない時間だ。「10万年の管理」とは、「放置」を体よく言い換えたに過ぎない。

数字できっちり書けば100000年。長くてもわずか100年ほどの電力のために、100000年もの未来を前借りする権利が現代人の一体どこにあるのか。

しかも最終廃棄場はいまだに作られていない。どころか、候補地さえ決まっていない。「原発はトイレのない家」といわれる。どれだけ立派でも、トイレのない家には住めない。

奈良の都、平城京は排泄物の処理機能が不十分で、都全体がおそらく相当な悪臭に包まれ、それが短期間で遷都した理由の一つではないかといわれている。古代、人々は悪臭を避けて都を捨てたけれど、現代日本で、少なくとも福島原発周辺と、各地の原発の跡地はそうなる。ただ、放射性廃棄物と汚物とは本質的に違う。人の汚物にはまだ使い道があるが、放射性廃棄物には何の使い道もない。原発は、トイレのない家よりも始末が悪い。

いまだに福島原発の壊れた原子炉を見た者は誰もおらず、破壊原因が専門家にさえわかっていない現況で(津波以前に地震で破壊した可能性もある)、根拠なく「津波対策さえすれば大丈夫」と、「原発維持やむなし」と考えられる人たちの気が、ぼくにはどうにも知れない。自分さえ良ければあとはどういう風でもいいという人にとっては、「原発維持」はなるほどしかるべき選択だが、これはつまりそういうことなんでしょうか、野田総理。

原発は、ウランの採掘という「発電以前」から、現地労働者の被曝なしに始まらない。原発の点検作業でも、当然のこと作業員は被曝する。「正常」に稼働していても、現場労働者への被曝の強制という差別構造が必然的にともなう原発の野蛮さ。その一点だけでも原発は間違っている。

万が一壊れたら、止まるのではなく、暴走して制御不能になるような物は、どんなに便利な物でも設計段階であきらめるものだ。その一点だけでも原発は作ってはいけない代物だ。

排出される廃棄物の処理さえままならない、その一点だけでも原発はいらない。

いったん事故が起きたら、取り返しのつかない被害が出る、その一点だけでも原発はいらない……。

「その一点だけでも」がこれだけ重なるものは、そうそう見当たるものじゃない。

と、こんなことチェルノブイリの頃からわかっていたことばかり。なのにぼくたちは。

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2011年10月15日 (土)

鳴るギター

Top_blueギター、特にアコースティックギターで、「ギターが鳴るようになった」なんて話を時折り聞く。時間が経って木が乾き、音の反応がよくなる、と。

そういうことは、ない話では無論ないけど、それってギターが鳴るようになったんではなくて、そのギターがよく鳴るような弾き方を身につけたってこと、かなり多いと思う。

今も鳴らなかった時と全く同じ弾き方していると言える? ギターの鳴り方なんて、弾き方が少しでも違えば、全然変わることもある。

ただ単にそのギターに弾き慣れただけのことを、「ギター自体が鳴るようになった」と思い込むのは、迷信の元。ましてや、たかが一年や二年で、木が乾くとかそんなことがあるもんかい。湿度の影響が大きい木を多く使っている楽器だから、そう思い込むのも仕方ないけど、ギターには迷信めいた話が少なくない。

その楽器に合った弾き方を常にするのは、とても難しい。家にあるギターを気の向くままとっかえひっかえ弾いていると、クラシックギターとアコギでは弾き方ががらりと変わるし(ハタ目にはほぼ同じでも)、同じスティール弦でも、ギブソンL-1とギルドのF-30RNTとでは、鳴り方も鳴らし方もずいぶん変わる(ハタ目にはほぼ同じでも、ね)。

それらのすべてにその場で即座に対応できれば、そりゃあ達者な話だけど、ぼくにそんなのは無理。今日はそのギターに見合ったこの弾き方が一番ノリノリで弾けて気持ちいい、というぐらいの話。

とはいえですね、我が家のギルドF-30RNT(七十年代製・日本向け百本限定生産の内の一本らしい)はですね、三十年ほど前に入手した時よりも、ずいぶんと鳴るようになっているんですよ、オホホホ。エレキのほうも、テレキャスもSGもレスポールも、どれもが手に入れた時(十五~二十年以上前)より、とてもよく鳴るようになった。

・・・と迷信の元を振りまいてみた。ほんとはおれがギター上手くなっとるんじゃ。ガハハハ。

ギタリストのみなさん、ギターが鳴るようになるのを待っている間にも、そのギターが一番鳴る弾き方を見つけ、身に着けるべく、そのギターを徹底的に弾き倒し、練習し倒しましょう。

あと、弾きやすく調整することを忘れずに。そんなこと関係なくいい音を出せるあなたは、そうね、ただのギター達者です。うらやましいです。

 

 

と、ここまで読んでくだすった読者様に音楽を。

パソコンをあーだこーだといじくっていたら、する気もないのにあれよあれよと言う間に、以前録った音源をユーチューブにアップしてしまいました。ブルースブレーカーズ時代のクラプトンの『ハイダウェイ』の完コピ。

こちらをクリックしますと行けるはずです。

絵は動画でなくて静止画です。見れてますか? 聴けてますか?

適切なファイルの大きさやら、タグっていったい何ぞやとか、細かいこともわからぬまま、ほんとにあれよあれよと適当にやってしまったんで、次の曲を上げるには時間がかかるかもしれません。もしかしたら調子づくかもしれません。チョサッケンの問題でどっかから文句があるかもしれません。どうなるかわかりません。

買いたてのサクサク動くパソコンだと、いろんなことができそう。

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2011年10月 7日 (金)

化粧も祈りも音楽も

Top_yellow宗教家は問われる。圧倒的な災害を前にして祈りは有効か、と。確かに、祈りそれ自体にはガレキひとつ動かす力もない。だが、死者を悼むこともないまま、次の行動は可能か。今回の東北大震災後の新聞にも、被災地に入った若い僧侶など宗教家たちへのインタビュー記事があり、それぞれがみな苦悩を打ち明けていた。

被災地の避難所に化粧品が送られ、被災者の女性が口紅をさすと、落ち込んだ気持ちがほぐれたという話を聞いた。こうしたことは、非常時ばかりではなく、老人施設のお年寄りや病院の患者でも、気分転換にと、髪をとかし、化粧をすると、うつうつした気分が和らぐものだという。化粧にはそうした働きがある。口紅をさすこと自体にガレキを動かしたり病気を治す力はないけれども、人を前向きにさせる力を持つ。

震災の報道を見て、少なくない人が、何もできない後ろめたさや無力感を持った。そうした中で、化粧にたずさわる人が、現地へ化粧品を送り届けた。何の力になるかは分からずやったことでも、束の間とはいえ被災者にホッと一息を与え、次への一歩を踏み出す気にさせた。

祈りもまた同じようなものなのだとぼくは思う。初めに踏み出す一歩なのか、次の一歩なのかはわからないが、足を踏み出すそのとき、祈りは人の背中をぐいと押す。

祈り方は人それぞれ違うだろう。念仏なのか、お経を読むことなのか、手を合わせることなのか、じっとだまって思いをかみしめるのか、亡くなった人や失われた地に思いを馳せるやり方は、人それぞれのやり方があるというだけで、祈りもなしに一歩踏み出すことは難しい。

食事という行為には、「ただ腹が減ったから食べる」という以上の意味があるはずだ。生きていくために食べるとはいっても、何のために生きるのか、生きていくことに意味がなければ、食事には「腹が減ったから食べる」という以上の意味がない。

被災地の復興にしても同じだ。考えられたし、祈りのない復興を。むしろそちらの方が考えにくい。何のための復興か。死者を悼み、失われた土地を嘆き、そうした上での復興であってこそ、復興の復興たるゆえんがある。祈りもなくなされた復興は、パサついた町しかきっと作り上げられない。

「口紅」の意味が理解できるならば、宗教家は勇気をもって祈ることだ(無論、祈りは宗教家の専売特許ではないが)。ガレキひとつ動かせない祈りに何の意味があるのだろうかと、祈りを無力に思うことなどない。そのガレキを動かすことに、祈りは意味を与える。

震災に限らず、平和への祈りも同じこと。祈っていただけでは銃弾ひとつ減らせやしないが、なぜ減らさなくてはならないのかの意味を、平和への祈りは与える。意味をもって生きていくためには祈りが必要であるように、人が生きていくためには音楽やお笑いなどの芸術・芸能がなくてはならないのも、これまた同じことだ。むしろ状況が悲惨であればあるだけ、「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉は重く響くはずだ。

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2011年9月 5日 (月)

先生、東大生は学生です

Top_yellow最近の気にかかる言葉。

その一、「父兄」。この言葉を最近やけに耳にする。「保護者」「親御さん」のことを言うのに、「父兄」を使う人がめったやたら増えてきた。「父兄」とは家父長制の遺物であって、家族の決定権を「戸主」たる父(が不在の場合は長兄)が持っていた頃の言葉だ。女性に参政権がなかった時代、男尊女卑なのは言うまでもない。

戦後、公的な場面での使用はなくなり、テレビで使われれば訂正が入るべき言葉に一時はなっていたはずだ。それが、昔に戻ったかのように復活してきた。

つい最近も、中堅の与党政治家(名前は忘れたが、テレビタックルで見かける使えない政治家)が、「保護者」と言ってすぐ「父兄」と言い直すのを見て、よっぽどぼくはテレビ局に抗議しようとも思ったが、タワケらしい、ここでボヤくにとどめとく。

「親御さん」では、親のいない子もいるからと、そこにも気をつかって「保護者」と言うようにしたのである。そしてそれはいったん定着したのである。今さら「父兄」もないもんである。

良識ある人は、いやいや、良識のない人もちゃんと「保護者」と言いましょう。

その二、大学生のことを「生徒」と言う。大学生は「学生」である。「生徒」は高校生と中学生、場合によっては小学生のことを指す。

「大学のレジャーランド化」が言われていたぼくの学生時代でさえ、大学生が「生徒」と言われることはなかった。今ではさらに時代が進み、「大学生の高校生化」が嘆かれているとはいえ、大学生を「生徒」と言うのは、小学校低学年を幼児とあまり変わらないからと「園児」と言うようなものである。

普通の人だけでなく、大学教員や大学生自らまでが大学生を「生徒」と言うのを聞くにいたっては、「日本の知性の劣化、ここに極まれり」である。テレビでは訂正が入るどころか、フリップに「○○大学の生徒」と書かれ、局アナまでがつかう始末。このまま行けば、大学生が「校内禁煙」の大学でタバコを吸って、高校生バリに停学になる日もそう遠くはない。

強烈に印象に残っているのは、建築家の安藤忠雄が東京大学の教授になった頃、教育テレビの番組で、「私が東大の入学式で生徒に向かってこういう話をしたのだが、・・・」としゃべっているのを聞いて、ぼくは耳を疑った。「こういう話」がどういう話だったかよく覚えてないが、さらに強烈なことに、「東大の生徒の父兄」と言うのを聞くにいたって、ぼくはテレビの前で身がよじれそうになってしまった。

関係者は誰か安藤先生に注意してやろう。「先生、東大生は学生です」。大物過ぎて、もう誰も注意できんか?

その三、……、もうやめとこう。

言葉が変化するのには、それなりの時代的背景や理由があるわけだが、ここで見た言葉の変化の背景はいずれも、戦前回帰に知性劣化と、決してほめられたものではない。「この国がダメになったのは日教組のせい」と、ナントカの一つ覚えのように言っている人が率先して言っていそうな「父兄」「生徒」。こういう言葉づかいをする人に教育を論じられても、そのゆくえを思うに薄ら寒い。

最近の気になる言葉で、ぼくの中では双璧である。

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2011年7月 6日 (水)

大停電を経験したほうがいいのか

Top_blue広島や長崎の被爆者には、自身が罹病した白血病やガンは被曝が原因だと認めさせるために、いまだに政府と争っている人がいる。戦後六十五年以上経っていまだに、である。

今現在、チェルノブイリ事故で強制移住させられた地域よりも高い放射能が検出されている地域で、日常生活を強いられている国民がいる。被曝限界値を超えたまま原発の事故処理に従事させられ続けている作業員がいる。

ありていに言ってしまえば、これは、危険地域に住む人を素材にした人体実験が、現在進行形で進んでいることを意味する。今後の被曝値の基準作りにきっと役立つであろう、低レベル放射能の人体や環境への影響の基礎データが、この地であらためて収集されている。そんな許されざることが、ここ日本で現実に起きている。こうした人たちのことを日本語では「棄民」と言う。

まったくもって、今この時期に政争をやっていられるなんて、東北をとことんまで田舎モン扱いする、東京に住まう「エリート」たちの腐った根性を見せつけられる思いがする。東京直下の大震災だったら、こんなことはありえない。

政府の震災対策が不十分なのは言うまでもないにしろ、野党自民党の言い分には道理の「ど」の字もない。何よりはっきりいえるのは、原発を推し進めてきた自民党がもしこの時期与党であったなら、今よりも情報隠しはひどかっただろうということ。彼らには解党する以外、今後の原発政策で出る幕はない。

いずれにせよ、原発依存を変えない民主党と自民党のどちらかを選ぶなんて、毒リンゴか毒マンジュウかどちらかを選ぶのと同じ。大連立とは、さしずめリンゴ味の毒マンジュウといったところか。

さらに言えるのは、3・11後も、脱原発をうたう共産党や社民党が大きく伸びることはなく、これらの党を他の政策等によって支持できないからといっても「緑の党」を生み出すこともしない、というショーモナイ政治状況を、東北も含めた日本の有権者は選択し続けるだろうということだ。

原発の反社会性は以前からわかっていたことだし、原発震災の現状は予測されていたこと。原発に賛成から反対に変わった人は、それを知らされてこなかったことに、もっと怒ってしかるべきなのに、日本人の主権者意識の低さは目にあまる。東京経由の情報に頼らざるを得ないメディアの状況が、これにさらに拍車をかけている。

沖縄の基地問題でもそうだが、自分が損をしなければ我れ関せず(自分が損する分だけ我れ関する、か)の姿勢。こんなことなら、この夏は節電で茶を濁すのではなく、むしろ大停電になったほうが身にしみていいんじゃないかとさえ思う(とはいえ、そうなれば、さらに弱い所へシワ寄せがいくだけのことだが)。

「代替エネルギーが安定供給できるまでは、地震が来ないよう祈るばかりだ」と、産業界を中心にした、原発を止めたくもないし夏季の長期休暇もさせたくない人たちは、自分だけがよければいいという資本の強欲さ(かのマルクスによれば、資本家の合言葉は「洪水よ来たれ。我が亡き後に」である)を、相変わらず繰り返しているに過ぎない。

チェルノブイリ事故では、事故後数年経ってから白血病や甲状腺ガンが、子どもを中心に急増したという。被災地の子どもたちが大人になり、ぼくらが死に絶えた後にも、彼らに裁判を続けさせるようなことがあってはならない。

ああ、早く人民の政府がほしい。

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2011年6月15日 (水)

今とつながっていたいから

Top_yellow 最近なんか知らんがアヴリル・ラヴィーンがヘビーローテーション。

春先、ネットの無料放送のギャオをのぞいたら、アヴリル・ラヴィーンのプロモーションビデオがわんさかあったんでなんの気なしに見ていたら、「ホワット・ザ・ヘル」というえらいポップポップな曲が耳に残ってしまった。で、R.E.M.の新譜やらをレコード屋に買いに行った時、手にしたCDが昔からのバンドや旧譜ばっかりなんで、「よし、今の時代につながっとくために買っときますか」と、当曲入りの彼女の新譜『グッバイ・ララバイ』も思いきって買ってきた。

さっそくケータイに取り込んだら、気づけば出かけるたびにニール・ヤングやらザ・バンドやらを差し置いて、アヴリル・ラヴィーンばっかり聴いている。CDを買っても、買っただけであまり聴かないことがちょこちょこと増えてきた昨今、同じのをこれだけくりかえし聴くのも久しぶりだなあ。

てな話を兄に話したら、「そうか。俺はおんなじ理由でレディ・ガガ買ったわ」だそうである。うむ、兄弟である。

いつまで見れるかわからないけど、「ホワット・ザ・ヘル」にリンク張っときます(「無料音楽PV動画」へ→ここをクリック)。

ちなみに。この曲のコード進行は、
A A / D D / F♯m F♯m / F♯m D
を延々くりかえし。簡単で楽しいのっていいよね(ちなみに、先日ある書評を読んでいたら、芥川賞作家が書いた文章読本に「いい文章のコツとして『ちなみに』は使わないこと」とあったそうな)。他の曲もCDに合わせてギターを弾いたら単純なコード回しの曲が多かった。好感が持てます。

マドンナやパフィもかつてくりかえし聴きまくっていたが、彼女たちの音はその向こう側にナイル・ロジャースや奥田民生の音が聞こえてくる。アヴリル・ラヴィーンの場合は元ダンナのナントカというのが別れた今でもプロデュースしているらしいけど、最近の音楽事情にウトいので彼が何者かよく知らんが、まあようでけとる。

矢野顕子もそうだったけど、時にぼくがこうして女性ボーカルにハマってしまうのは、あれか? いわゆる「癒やされたい」というやつか? それとも、ぼくには綾瀬はるかという思い人がいるにもかかわらず、アヴリル・ラヴィーンに恋してしまったとでもいうのか?

ときに。「癒やされる」「癒やし」という言葉って不自然だと思いませんか? 聞くと軽くムシズが走ったりしませんか? その理由はもしかしたらこれか、と最近思ったことがある。

すなわち。「心の傷=トラウマ」という言葉が一般でも使われだし、「癒やし」という言葉がはやりだすまで、「心が癒やされる」ではなく、「心の傷が癒える」など「癒える」を使うのが普通だった。先日頑固老学者の書いた日本語についての本を読んでいたら、
「最近は『つながる』の他動詞形を『つなげる』と言うようだが、もともと『つなぐ』という言葉があって、その自動詞形として『つながる』になって、そこからさらに『つなげる』という変な日本語ができて、それが今や当たり前になってしまった。せっかくの『つなぐ』という言葉はおそらく何十年後かに古語になるであろう」
と、嘆き節がぶちまけられていた。同様に、「癒える」の意味を表わすのに、わざわざ「癒やされる」と他動詞形にしたうえで受身で表現する不自然さ。そこが気持ち悪いのではなかろうか、この「他動詞形+受身形」が「癒やし=とってつけた癒え」を感じさせるのではなかろうか、と思った次第。(かく言うぼくは「つなげる」を普通に使っていることをこのブログの過去記事で確認した。すまぬ、老頑固先生。)

「癒える」と「癒やされる」とは微妙に意味合いが違う。「癒える」のは傷であって心ではない。「癒やされる」のは傷ではなく心である。形容詞もつかず「心が癒やされる」と言うほどに心が普段から傷ついた「傷ついちゃった症候群」は、「感動をありがとう」や「夢をありがとう」の軽薄さに通じている。今ではなんでもかんでも「傷ついた」「トラウマだ」とうるさくてかなわん。

大体、「癒」っていう漢字が難しすぎるわ。書けんぞ、こんなの。

と、そんなことはどうでもいいとして、何べんも何べんも聴いたアルバムはそれこそ何枚も何枚もあるから、その中にめちゃ売れ線ポップがあったってかまわんのだけど、パフィを聴きまくっていた時につくづく思ったのは、マディ・ウォーターズやジョン・ハイアットなんかと違って、売れている物は堂々と店の真ん中にあるのだなあ、という感慨。CDを買うとポスターまでつくのだなあ、という感慨。コンサートが当たるかもしれないキャンペーンが帯についているのだなあ、という感慨。

街中に出てもBGMで聞こえてくる。布地屋で布を見ていると、さっきまで道すがら聴いていたアヴリルの声が♪~♪~、キャーッ、しばらく店を出られないわぁhappy01  ビートルズやクイーンならこういうことは時々あるけれど、エルビス・コステロやジョニー・ウインターではまずないことだし、レッド・ツェペリンでさえほぼない。売れているとはこういうことなんだなあ、とシミジミ。

最近の若い子はダウンロードばかりでCDをあまり買わないということだし、ましてやアルバムを丸ごと聴くことも減っているらしい。作り手側もアルバム全体のでき云々を考えた作りというよりか、なんか資料集みたいにCDの容量にぎっちりいっぱいいっぱい曲が詰め込んであることも少なくない。これは作り手というより売り手の意向というべきかもしれないが、実際お目当ての曲以外、アルバムを丸ごと聴くには長すぎてヘキエキとしてしまうことが増えた。まとめて聴くにはよっぽどお気に入りのミュージシャンでもいいとこ四十分ちょっとだろうと思う、生理的に。

アヴリル・ラヴィーンは今作で四枚目だそうな。デビューから三枚連続でミリオンセラーだったそうな。すごいね。では今度三枚まとめて買ってきて、今年のお盆は順ぐりにカーステでかけながらお経にまわるとしますか。

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2011年6月 7日 (火)

ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ

Top_blue日本には「放射能アレルギー」という言葉がある。これは無論、日本人の原子力との出会いが、広島と長崎に原爆が落とされるという最悪の形だったからだ。しかしこの言葉が聞かれることも減ってきた。放射能への正しい理解が深まったからというならそれでもいいが、ぼくには原爆の記憶が風化してきたからと思えてしかたない。

核を扱う技術に、原発と核兵器とで大差はない。だから「原子力の平和利用」を約束しない国に他国は技術協力していけないことになっている。北朝鮮が原発の開発を騙しだまし推し進めたのは核保有のためだった。また、核保有国は技術維持のために必ず原発が存在する。日本でも日の丸が大好きなタカ派人間がしばしば核武装の議論をしだすのは、国内で現に原発を稼動させている技術があればこそだ。原発自体の危険性や廃棄物の問題を差し置いても、被爆国の日本に原発が存在していることは被爆者へのとんでもない冒涜である。

広島、長崎がヒロシマ、ナガサキとカタカナ書きされるのは、そこで起きた事が国を超えて人類全体に関わる事柄だからだ。そこに今回フクシマが加わった。ヒロシマ、ナガサキ、さらに第五福竜丸を経験した国がフクシマを引き起こしたことは、単なる原発事故以上に罪深い。原発を推進してきた者たちは残りの人生のすべてを懺悔に費やしてもらいたいと思う。

と同時に、原発の存在を許してきたぼくたち日本人はもっと恥を知るべきである。フクシマを受けてスイスやドイツは早々に脱原発へ舵を切った。日本では事故から二ヶ月経ってようやく、原発の廃止・縮小を望む人が現状維持・増設を望む人を上回った程度である。これまで日本が国際的に反核運動を牽引してきてもおかしくなかったのに、逆に戦後一貫して経済発展のためにと原発依存を深めてきたばかりか、フクシマを受けても今なお原発を可とする人が一定数いるなんて、ここまでくると日本人のお人好し(か、それともただの無知か)も罪である。

今回の事故を北朝鮮や中国が起こしたと想像されたし。「ひとつになろう日本」、右翼だけでなく少なくない日本人が口をきわめて彼の国を罵倒したことだろう。しかし、現実に海に空にと放射能を垂れ流し、同胞を苦しめているのは、我が「美しい国、日本」である。

中山千夏が雑誌に書いていた(『週刊金曜日』5/13号)。いわく、
「私たちは雨を防ぐのにワイパーや傘などという、雑巾での窓拭きやミノ笠と同じ原理の原始的な技術しか持っていない。雨という自然現象を避けるのに物理的に遮るしかなく、人類はまだ雨すらコントロールする技術を持たない。まして凶暴な地震や津波をコントロールできず、原子の振る舞いにもその域を出ていない。だからね、人類はワイパーと傘がどうにかなるまでは、原発を実用してはならないのだよ」云々。

ケータイやテレビのデータ放送で天気予報をいつでも見られるようになった。が、そこで予報された雨には傘を差すしかない。どれだけ情報の流通が革命的に進歩しようとも、現物を目の前にしたベタの生活のところで人間は昔とあまり変わっちゃいない。

核廃棄物の処分地は何万年も立入禁止になる。どこの国だったかの原発関係者は、何万年後の人にもわかるよう、これまでの言語変化の歴史から将来の「立入禁止」の表記の変化を予測してくれと言語学者に依頼したそうである。この原発関係者は真性のたわけ者だ。こんな代物に支えられた経済発展とは何なのか。フクシマは現代のあり方を問い直している。

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2011年5月 1日 (日)

「ひとつになろう日本」という前に

Top_blue_2かつて原発の安全性を問う裁判で、核燃料の冷却に使う非常電源が地震で作動しなくなる可能性を問われ、中部電力側証人の大学教授は、「想定していない。可能性があるものを全部組み合わせいったら、物なんて作れない。どこかで割り切るもの」と証言した。

作った物が完全に壊れた場合、最後は暴走して止まらなくなるような物はそもそも作らない、そう考えるのが普通の人の感覚だ。しかしそんな代物を「割り切って」作るような人がこの国では基幹産業の真ん中にいて、本来そういう人を脇に追いやるべき為政者は彼らを利用し、また利用されている(この教授は現在原発の安全性を監視するハズの原子力安全委員長)。

そういう為政者をずっと選び続けているのは有権者のぼくたちだが、もしぼくたちがまだ普通の感覚を持ち合わせている(か、今回の原発震災で改めて思い出した)のなら、あらゆる可能性を考えたら危険で作れない(と原発推進者も認める)原発なぞすぐに廃止できる。こんな危険物が作られているのは、巨額の原発利権という、いつもの、そしてぼくたちにはほぼ無縁の理由が存在するにすぎない。

地域独占で広告の必要がほとんどない電力会社が何の広告をしていたかといえば、原発推進のものばかり。メディアもまた、莫大な広告費(トヨタをも上回るらしい)を払ってくださる上得意のスポンサー様である電力会社様のお立場を悪くするようなことはこの期に及んでもできればしたくない、のかもしれない。だからきっと、震災まで毎週のようにやっていた世論調査を原発についてはまだやってない、のかもしれない。世論調査は報道の通信簿、「今後も原発を作り続けよう」という気分になるニュースをさすがに今は流せないから、「原発不要」の数字が調査のたびに増えては電力会社様に大変失礼、なのかもしれない。

反原発運動家や、阪神大震災後の頃から「原発震災」という言葉で今の状況を予想していた地震学者を、今もって新聞・テレビで見ることはほとんどない。「原発震災」なんて、現状をいうのにこれ以上的確な表現はないだろうに、広まる気配もない。この手の言葉にすぐ飛びつくメディアが「原発震災」にはほぼシカトを決め込んでいる。

今朝のテレビで見た、原発の被害過程を解説する地震専門家が東海大地震の震源域上の浜岡原発の即時廃止を求めない茶番。せめて「安全強化工事完了までの間は停止するように」ぐらい言ったらどうか。「東海大地震は今すぐ起きても不思議でない」とは、あなた方から教わってきたことである。

何か変と思っても、何に遠慮してか意見(特に上や多数への)をはばかるのは日常茶飯事だ。いくら正しくても少数派は気を遣って控えめに言わないと、「空気が読めない」「場をわきまえて」だのと白眼視される。そんな文化の中、皆で「原発ありき」の空気を読みながら積み上げてきた結果が今回のこれだ。起こるべくして起きた原発震災の理由は、日本に住む人間なら誰でも肌感覚で知っていることである。

そんな国で「ひとつになろう日本」と言われても、ねえ。それって、せめて長い物に巻かれている自分を少しは反省してからじゃないのかね? 反省もなしにひとつになってもなあ。確かにこの国には日の丸がよく似合う。

「原発さえなければここも『普通の』被災地だった。『さあ復興だ』と言える。早く事故を収束してくれ、原発をなくしてくれ、それが願いだ」という原発震災被災者の声はどこまで届くだろうか。

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2011年4月25日 (月)

原発震災

Top_blue高い所に行くとぼくはしばしば、眼下に広がる街並みがまだなく、人間の手が入っていない頃の森林や草原が広がっていたであろう風景を想像する。そしてその度に、文明を謳歌し日々の生活を営む現代人の歴史の浅さを思い、ぼくたち人間は所詮地面に張りついて生きていくしかないのだと思い返す。

今回の東日本大震災を見て改めて思うのは、自然の猛威の前に人間はどうにもかなわないということ。耐震建築や防潮堤という鎧は多少の備えにはなっても、人間は自然を完全に制御することなどできない。

想定外。自然からすれば人間の身勝手な「想定」なぞ何の関係もない。目先の費用対効果に偏向した「想定」をしてきた専門家は、要するに自然を相手にする科学者ではなかったのである。彼らは「千年に一度の大津波」を免罪符のように言いつのるが、千年なんて自然からすればわずかな時間。彼らの「想定外」という言い訳は、崖に残る千年前の二十メートル級の津波痕を見なかったことにしようとした「負け犬の遠吠え」である。

原発事故でも「千年に一度」としばしば聞くが、放射能の半減期が何億年もある核物質を扱う人間の言葉とはとても思えない。その態度は、破綻がわかりきっていた金融バブル崩壊を「百年に一度の経済危機」と煽り立て、不況直撃の責任回避に必死になった政府や経済人と変わらない。

国内外の研究者から日本の原発の地震・津波の想定の甘さを指摘する声は以前からあった。今回現実となった、被曝を恐れて救援が滞るなど原発事故が災害を増大させる「原発震災」も、ずっと警鐘が鳴らされ続けていた。今回特に原発事故で「想定外」と発言する専門家は、非現実的な「想定」がバレた生き恥さらしのエセ科学者と憐れむしかない。

原発は地元に「事故は絶対に起きない」と嘘をつかなければ建設できない。事故対策も「絶対に起こらない事故」なのだから、まともなものを作ってあるはずもなかった。原発建設では、建設前なのに放射能を恐れまともな建設労働者が集まらないという。はたして、配管がメートル単位でずれても作り直すことなく、強引に曲げてつなげる(!)のだそうだ。今回事故処理に当たっている下請け作業員は、「断れば今後仕事を切られるだろうから」と否応なく来ている人も少なくない。

原発は発電だけを見れば低費用に見えるが、これはマヤカシ。廃棄物処理も含めた全体を見れば原発は危険極まりなく、それに見合った費用をかければ高すぎて作る意味が全くない。百歩譲っても、原子力発電は決して実用段階にはなく、実験室レベルの代物だ。福島原発の事態は非常に深刻だが、嘘に嘘を重ねた原発が「この程度」の事故で済んでいるのは「幸運」でしかない。

東京電力の福島原発の電気は東北電力下の福島では使われず、東京に送られていた。危険な原発や核廃棄物を、金も知識も情報発信力もない片田舎に押しつける一方で、都会がその恩恵を受ける。ここでもまた、沖縄への米軍基地押しつけに似た差別の構図を見ることができる。

静岡の浜岡原発は東海大地震の震源域の真上に建っている。最悪の場合原発周辺の住民は棄民され、急性死五万人、風向きによっては後の分も合わせ計百八十万人の死者が予測されている。震災後の会見で記者に「帰宅困難者って何?」と聞き返した河村たかしを市長にいただく名古屋市民よ、次はぼくたちの番である、田吾作政治は天災を人災に変える。

原発震災の渦中にいる南相馬の友人とその家族を思うと、無力感と腹立ちで胸が痛む。

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2011年2月17日 (木)

しばしのお休みを

Top_blueなんか最近文章が書けない。書くことがないわけじゃ無論ないけど、文章にするのがめんどくさい。大事な仕事である寺報もやっとこさで書いている感じ。書き出せば一通り書けるけど、書き始めるのが億劫。

こういうことがあると最近ではそれウツだ、やれウツだと小うるさいけど、そんな大層なもんではない。なんとも書く気が起こらない。ほらやっぱりウツだ、ってうるさいよ。読まれているのかどうか、読まれても理解されているのかどうか、反応が今ひとつ鈍いブログではありますが、一応「五のつく日」に更新と決めておりますのに、そのお約束が果たせません。いや、めちゃめちゃやる気になれば果たせるのでしょうが、そうなるほどの気が起きません。今風に言うと、そこまでのモチベーションがないってんですか。モチベーションって、英語では「動機づけ」とかいう意味らしいけど、そんなこたぁどうでもいい、なんでも横文字にすればいいと思っている日本人同士では、「やる気」のかっこいい言い方ぐらいの気分で使えばいいんでしょ? この言葉、何年か前のサッカーのワールドカップの実況解説で使い始められたような気がするんだけど、ねぇあなた、選手のモチベーションが下がるって、正しい意味で言うなら、それは「勝つ気がなくなる」ってことでしょ。そんなことではそりゃ勝てません。常に世界の頂点を目指してがんばってください。たかが疲れたぐらいのことを、勝つ気がなくなることを意味する言葉で表現するほうもするほうだが。

そんなこんなはさておき、というわけで「モチベーション」がないんで、しばらく充電期間をおきます。小遣い稼ぎやめっちゃオピニオンリーダーなブログを目ざしたりすれば、アクセス数を稼ぐために何かに特化した専門ブログにしたりすれば、それこそそれなりの動機づけになろうというもんだけど、充電期間というのはそんな大それた方針転換ではなくて、無理からに自分で自分のケツ叩いてまでやる気を起こさすようなことはしませんよ、ぐらいのこと。もしかして男の更年期ってやつ? まあなんでもよろし。

書き始めたら書くよ書くよ、書きますよ、エフェクターのレビューにタバコの銘柄レビュー、名古屋のトリプル選挙で瀕死の民主主義に、何をいまさらの八百長疑惑で瀕死の大相撲に、諸般様々な場面でその場を支配するヘドが出そうな潔癖症社会の空気に、最近買った三菱製の録画機のリモコンの使いにくいことこの上なしだとか、あれやこれやの楽しいこと悲しいこと、言いたいことはたくさんあるのだ。それをごちゃらがちゃらとだらだら書くのである。

ところで、ヘドとかゲロってぼくが子どもの時はゲーゲって言った。ゲーゲ。これは名古屋弁? 子ども言葉? それとも子どもの名古屋弁? いずれにせよ語源がなんともわかりやすくてよろしい。
「ゲェ~、ゲェ~」
「きゃーきゃー、ゲーゲ吐いとるー、きゃーきゃー」
「ゲェ~、ゲェ~ゲェ~」
なんかかわいい。かわいくないか。かわいくないね。

では、しばしのお休みをください。

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2011年1月25日 (火)

タバコっておいしいよね

Top_yellow両切りピースを吸っている友だちに先日、約束していたキセルをプレゼントしたんだけど、その際、キセル入れとピース(もしくはショートホープ)用煙草入れを皮で作って付録としてつけた。

その勢いに乗じて残りの皮で自分用の煙草入れも久しぶりに作っていたら、にわかにキセルが吸いたくなってきた。十年ぐらい前はずっとキセルばかりだったのだけど、とにかくどこで吸っていても「おや珍しいですね」と言われ続け、せっかくの一服が全然落ち着かないのでやめてしまっていた。

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現在、キセル用の刻みタバコ『小粋』があちこちで品切れ状態のようだ。もともとそんなに売れる物ではなかったけど、ここ最近のタバコの大幅値上げの中、330円から360円と小幅な値上げだったので(手巻きタバコやパイプタバコと同じで“半製品”だかららしい)キセルの使用者が増えたらしく、それがテレビやネットで評判になって以降、もともと取り扱いの少ない商品がさらなる希少商品になってしまった、ということらしい。

刻みタバコには十年ぐらい前まで『やまぶき』というのが海外産であったけど(めちゃくちゃ辛かった)、今はこの銘柄しかない。大工場で作っているわけではなく、タバコ農家の人たちが細々と手間ひまかけて作っているので、生産が全然追いつかないらしい。この前もタバコ屋に行ったら、
「今注文しても三月の二十日頃まで入荷がない」
と、おばちゃんがぼやいていた。

仕方ないので買ったのは三箱だけで遠慮したけど、タバコ屋にそんなこと言われると妙に小粋がいとおしくなってくる。とりあえず大事に大事に一箱吸ったものの、なんかもったいなくて二箱目の封が開けられない。

そこで、少し吸っただけでほっておいた『レッドブル』という手巻きタバコの葉っぱを部屋の隅から掘り出してきて、キセルに詰めて吸ってみた。

プハー。おおこりゃ、いけるね、プハー。小粋ほど濃厚なうまみではないけれども、紙で巻いた時とは違って妙な辛さがなく、葉っぱ本来のさっぱりしたうまさがある、プハー。って、なんかうまく伝えれんな。まあ要はフツーにうまいっす。

キセルはタバコを詰める部分──「火皿」と言います──が小さいので、髪の毛よりも細い刻みタバコでなければうまいこと吸えない。これは葉っぱそのものの味を最高の形で味わえる吸い方だと思うものの、普通の紙巻きタバコをほぐして詰めてもちゃんと吸いきれず、灰が火皿に詰まってしまうことがままある。

てなことを経験していたから、手巻きタバコもダメだと思い込んでいた。ところがどっこい、やってみたら、さすがに刻みタバコほどではないにしても案外きれいに吸える。レッドブルよりも細い刻みの手巻きタバコもあったはずだから、しばらく小粋の代わりにはなるな、と思ってネットをチャカチャカしていたら、火皿がキセルより一回り大きい『ファインパイプ』という商品を見つけた。「火皿が大きいので手巻きタバコも吸えます」と謳い文句にある。お値段1680円。お求めやすいではないか。こりゃ買いだ。

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火皿が普通のより二回りは大きいキセルも古道具屋で買って持っているけれど、それだと手巻きタバコだけでなくシケモクをほぐしたやつでも十分吸える。ぼくの勝手な読みではこのキセル、戦後の物がない時代にシケモクをほぐして吸う用に特注で作られたもの、と見ていた。この推測にはタバコがないのに金属があるのかという疑問が残るが、それはそれとして、『火宅の人』檀一雄の伝記の写真を見ていたら、遺品の中にほとんど同じ形と柄の銀の延べギセルがあった。 もしかしてかつて流行ったのか?

これに小粋を詰めると、ぼっひゃあ、葉っぱ多すぎ。小粋は濃厚なうまさが売りである。それを倍以上の火皿に詰めて吸っていると、軽くタバコ酔いしてくる。タバコ吸って頭クラクラなんて高校生の時以来だぜ。この大火皿キセル、今はきれいきれいに掃除してしまってあるので出番はしばし待たれよ。今はファインパイプの時である。

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ファインパイプを買いに行ったタバコ屋は初めて行った店だけども、「タバコ大好き!」のおばちゃんがやっていて、紙巻きタバコは無論のこと、パイプタバコに手巻きタバコ、葉巻各種、パイプにキセルにあれもこれもと、タバコ好きには目もくらむ品揃えである。ファインパイプを買いながら、ここ一・二年マイブームのパイプの葉っぱもお勧めしてもらって、ファインパイプ用に『マニトゥー』という手巻きタバコも買ってきた。

パイプタバコは『オーリック/ゴールデン・スライス』というやつで、
「とにかく香り付けのしてないやつが好みなんです、というか香り付けがしてあるのは周囲に漂うあの甘い香りがちょっと苦手なんです。『ボルクム・リーフ/ジェニュイン』以外で何かないでしょうか」
と伝えたら、「それならぜひこれを」と出してくれた。

マニトゥーは以前一袋買ったことがあるけど、手巻きタバコはうまいとかまずい以前になんせメンドくさいので結局ハマることなく、味もちょっと辛かったかな、どんなだったかな、んんん?てな印象しかない。ただ、細く刻んであったというのは覚えていたし、タバコ屋のおばちゃんも「ファインパイプにもいいですよ」とのことであった。両方ともまだ吸ってないので味レビューはしばし待たれよ。今はレッドブル消費の時である。

小粋はこの店も超品薄状態なので、一箱だけで遠慮した。行った時お客はぼくだけだったのだが、しばらくすると「小粋入った?」と聞きにくる客が続々と来店。一緒に行った同居人は、
「こんなに小粋を求める人たちを見たのは初めてや」
と後で言っていたが、それはぼくもである。ここのおばちゃんもまた、
「もともと数が少ないタバコなのに、テレビやネットで取り上げられて、もう難儀やわ」
と、シッと口に人差し指を当てながらぼやいていた。

というわけでみなさん、キセルと小粋もいいけど、いま時代はファインパイプと手巻きタバコですよ。ぜひそうしましょう、そうしましょう。でも、小粋がこれを機に「ブーム⇒定着」の道筋をたどってくれれば、廃番の恐れもなくなって安心ではある。とか言いながらやっぱり、小粋が安定供給されるまでのしばらくの間はファインパイプと手巻きタバコが現実的な選択ではあるまいかの塩辛~っ! メグちゃんですっ。

同居人は帰りの道すがら、
「なんか、あーたにとって久々にアウェイ感ゼロの店でよかったな」
と妙な感心をしていたけど、そうそう、おれはタバコが大好きなんだなあ、大好きなんだよお、タバコはうまいんだよお、楽しいんだよお、と、あらためて感じ入った次第です。

ファインパイプの使用感やらを書き出すとまた長くなりそうなので、それはまた今度。

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2011年1月15日 (土)

百円灯

Top_blue最近の高輝度LEDの普及は目覚ましい。電池式の自転車のライトも、多くが長寿命をうたうLEDの物になった。前輪の回転を利用したダイナモ式のライトは明るいけど、こぐのが重くなるのでぼくは電池式のを買ってつけている。

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ところがこのLEDのライト、長寿命で明るいのはいいとして、点灯、遅点滅、早点滅と多機能なばっかりにスイッチの機構が複雑になっているようで、ちょっとした振動でも電気が消える。車道と歩道の段差でも消える時は消えるし、工事現場や道がガタガタの所を通った後ふと気づくと消えていて、困ったもんである。二千円とかの高いやつではなく安物だからもっちゃこいのかもしれんけど、にしてもこうもすぐ消えては具合が悪い。

以前も夜にキコキコ自転車を走らせていたらおまわりさんに止められて、「電気つけてくださいよ」。ライトを見たら消えている。うん、もうっ、まただ。「すんません、なんかあるとすぐ消えるんですよね、これ」とスイッチを入れ直した。

なんてことがたびたび繰り返され、これはどうかせんといかんと思っていたころ百均に行ったら、ありますねえ、いろんなライト。そしてここにも高輝度LEDを使用した物が何種類も。

これはと思った手頃な物(どれもが手頃だけど)を買い、これまた百均で買い求めた結束バンドで前カゴに縛りつけた。

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なにも無理してハンドルにつけなくても、これこうして前カゴにくくりつければいい。市販の自転車用のライトにはハンドルにつけるための金具がついていて、ハンドルにつけなくてはならぬとなんとなく思い込んでいたけど、これでいいのだ。荷物が当たらないようにスイッチを下か横にして、角度はライトのお尻の方に板切れなんかを挟んで調整すればよろしい。結束バンドは使い捨て式のでなく繰り返し使えるやつにすれば、電池の交換も安心(使い捨てのでもたいした額じゃなし、かまわんけど)。

百円ともなれば点滅とかこまっしゃくれた機能がなくてスイッチが単純だから振動でスイッチが切れることもなく、かえって好都合。しかも、しかもですよ、明るさは自転車用のよりむしろ明るいぐらいなんですよ。実に快適。もうおまわりさんも怖くない。

もちろん防水などという上等な小細工もないけど、それはそれ、雨に濡れて壊れてもたかだか百円、買い換えればええではないか。みんなも消費、消費で景気の底を打とうではないか。

壊れるよりも、むしろ盗まれることの方が多い。世の中にゃけしからんやつがおるもんだ。しかし、おお、胸に手を当て、ああ、我が身のかつての罪を嘆くのであった。うぐぐ。酔っていたとはいえすみませんでしたっ!

こんなライトが百円でできるなら、スイッチやフタにパッキンをつけて簡易防水にしても二百円でできそう。

なんかすごい時代だと思います。

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2010年12月25日 (土)

年越しセブンスター

Top_yellow十月の値上げに備えて大量に買い込んだセブンスターが年を越しそうである。絶対にハズレのない先物買いは案の定大当たりであった。ノーリスク・ハイリターン。

同じレベルの他の銘柄の多くが300円から410円への値上げだったのが、セブンスターは葉がいいらしくて440円になった。懐にはもちろん痛い話だけど、自分がこれだと思って愛飲していたタバコが実は他よりもいい葉を使っていたとわかって、ちょっとうれし…、がっている場合ではない。高いようdespair

なんでも、刻みタバコの『小粋』は330円から360円の小幅な値上げだったから、最近キセルの使用者が増えているらしい。タバコ屋で『小粋』が品切れなんだって。安いだけでなく、『小粋』は濃くてうまいんだけど、値上げがそのことを知るきっかけになれば、タバコ飲みとして少しは救われる。思い返せば、酒やタバコの歴史は税金との戦いの歴史でもあるのであった。にしても高いようsad

今回の値上げで両切りピースを吸っている友だちはキセルに、刻みタバコではなく、半分に切ったピースを挿すスタイルになった。十年ほど前、ぼくはキセルを常用していたんだけど、一服するたびに「珍しいですね」と言われ続け、めんどくさくなってやめた。うん、もうめんどくさいわっ。でも今ならもう言われん? そのうち再開? で、その頃に何本も古道具屋とかで買って数だけはそこそこ持っているから(多くは安物だけど)、友だちにそのうち一本進呈しようと思っている。キセル万歳。

パイプタバコも紙巻タバコほどの値上げではなかったから、こちらも愛好家が増えているらしい。二年ほど前から家ではパイプを吸うことが増えていたから、パイプタバコの方は最近お気に入りの『ボルクムリーフ』の「ジェニュイン」というのを六・七個買い置きした。パイプタバコの葉はあんまり減るものでなし、そもそも紙巻タバコより割安。パイプもプカプカ。セブンスターなら一日二箱ぐらいのぼくは、そのおかげもあってか想定よりセブンスターの減りが少なくて、買い置きはめでたく年越しである。

キセルやパイプの話はまた近いうちに書こうと思う。道具を使う喫煙はいかにも大人の楽しみ、大人の嗜みです。

考えてみれば、値上げ以降まだタバコを買ってないなあ。タバコ屋の廃業も進んでいるみたいだけど、そのうちタバコ屋のある風景が懐かしくなる時代が来るんだろうね。今のうちに写真でも撮っとくか。

改めて言うまでもないけど、最近のタバコへの風当たりは「嫌煙」とかのレベルをとうに超えて、禁煙ファシズムといってもいい状況。この前も新聞の投書欄で中学生が「駅前で大人がタバコを吸っていて、通学の時いつも私は息を止めて早足で通り過ぎる。この前は間違えてタバコの煙を吸ってしまったけど、病気にならないだろうか、心配だ」と書いていた。投書の内容は早い話が、駅前に分煙施設を作ってそこに喫煙者を閉じ込めておいてほしいということなのだが、それにしてもタバコの煙を一息吸っただけで病気を心配するような神経症気味の中学生の言葉が、天下の朝日新聞の投書欄に正論として載るんだもんね、すごい時代になったもんだね。

ぼくがこの子のおじさんだったら、「○○ちゃん、新聞見たよ。タバコの煙吸っちゃったんだって? きっと肺ガンで死ぬよ。中学生なのにタバコの煙を少しでも吸ったなんて、もうおしまいだよ。かわいそうな○○ちゃん・・・」とおちょくることだろうけど、にしても大丈夫か、この国は。こんな子を育ててしまって。

「嫌煙」という言葉になぞらえて言うなら、ぼくは大の嫌「嫌煙」だが、そうであるのにはいろいろと理由がある。それはこのブログでも何度か書いているから繰り返さないけれども、理屈、論理だけでなく、情の部分においてもぼくはどうしても嫌煙にくみする気になれない。

ぼくが通っていた私立の高校はいろいろとワケあって、自由な校風というのか、教師も含めてとてものびのびとした学校だった。教師には個性的な人が多く、生活指導部ででかい顔をしている教師も、かつて若い頃には、当時勤めていた公立の学校で気に食わない教頭を張り倒して辞表をたたきつけこの学校に流れ着いただとか、ぼんやりとした理科の教師が実は、みなさんご存じの「時差式信号」の特許を持っているだとか、夜中に地震がきたとき奥さんをほったらかしにして、収集した鉱石をかかえて逃げ出したがために離婚してしまった地学の教師だとか、大相撲名古屋場所が開いている時は三時の終業直後に迎えに来たタクシーで愛知県体育館に向かう老教師だとか、それはそれはいろんな人がいた。教師がそうなら生徒も推して知るべし。いちおう地元では有名な進学校で、デタラメといっても、同居人の言葉を借りれば「よくわからんけど、話聞いてると旧制高校みたいな雰囲気に思える」という感じ。なんとなくわかりますか?(噂に聞けば、それも今は昔の話らしいけど)。

で、そんな学校に今回主役の大っ嫌いな年配教師がどういうわけだか国語科担当でやって来た。それまで公立高校で教えていたらしいが、授業は棒にも箸にも引っかからないどうでもいい内容。当時は(今でもか?)愛知県は管理教育の先進県。名古屋市内は三河や郊外に比べればマシだったとはいえ、それも知れたこと。そんな公立学校でまじめにやってきた教師が、「自由」なのか「デタラメ」なのかそんなんでやっている学校にやってくれば、そりゃあ嫌でも浮くっちゅう話である。

授業はものの見事に学級崩壊状態。ぼくの高三の時の現代国語の担任だったが、授業を聞くやつは前列に座り、それ以外はご飯を食べたり、お茶をすすったり、トランプをしたりという風であった。

そんなある時、
「君たちはどうして授業を聞かないのか! 」
と、いきなり怒り出した。
「噂で聞いていたこの学校の評判とは、あなたたち全然違いますね!」
するとぼくらは、口々に、
「だって先生の授業全然おもろないもん」
「先生は俺らとは合わんわ」
「先生、公立に帰りゃあ。ここで教えとってもつらいだけでしょう? 先生のためにもならんに」

進学校の生徒とはまったく鼻持ちならぬものである。とんだエリート意識の持ち主である。もう年寄りと呼んでもいい年齢の教師に向かって、自分らが気に食わないからと、「先生のためにも俺らのためにも、はよここ辞めやあ」だでね。

と、一見そうは見えても、本当は、誇り高いからつまらない授業をボイコットしていただけのことで、その表現がやや幼くて、口汚いだけのこと。クラス担任も国語科だったので
「先生、なんであんな人呼んだの?」
と尋ねたら、先生は
「ほほほ、みなさんとは合いませんか。ほほほ、まあ、あとしばらくだから我慢してください、ほほほ」
「あの人は先生の大学の先輩になるんだって? 先生もつらい立場でしょう?」
「まあ、そうですが。おほほほほほ」
てな具合であった。

現国のテストの勉強なんかしたことなく、それでも成績のよかったぼくが、この時初めて赤点をもらった。後期末最後の試験を受け取りながら、「本当につまらん授業でした(聞いてないけど)。勉強しないかん現国のテストなんてのも初めてでした(してないけど)。さようなら」とあいさつした。

現実の公立の「管理教育」をほとんど知らないでいた、中高一貫の私立学校のぼくたちにすれば、この教師の姿は「管理教育」を想像するに十分な存在であった。なんとも不自由。なんともつまらん。おー、やだやだ。

念のために言っておくけど、この教師に都痴事や府痴事やボス猿市長のような傲慢さはなく、人柄はむしろ温厚で悪気のない善意の人である。

で、ですね、ぼくらが卒業した年だったかに、この教師が「職員室を禁煙にしないで、どうして生徒に禁煙指導ができるか」とのたまう新聞の投書を読んだのである。

子どもがしてはいけないことは大人もするべきではない、というのがこの教師の言い分なんだろう。この人は、セックスをする大人は子どものセックスを容認する悪い大人だと思うタイプだろうから、そんな話にまともにつきあう必要はない。

世の中には大人だけに許されることや大人だけの楽しみがあり、また、それを見て背伸びしたがる子どもがいて・・・、と、そういうことがわからない人というのは、得てして子どもの背丈に大人を合わせようとする。違うものを同じ尺で計ろうとする。たしなみを健康の物差しで計ろうとする・・・。

そして、今の風景を見れば・・・、ね、そういうことです。時代の流れは彼の教師のあとを追う。

ぼくの「嫌煙」との出会いは幸か不幸かかくのごとし。嫌煙の言葉を身近な所で初めて聞いたのが、この大っ嫌いな教師の口からだったぼくにしてみれば、今後タバコをやめたとしても「嫌煙権」なぞという下らないことはきっと言わない。言いたくない。理屈だけでなく、情の部分でも嫌煙権やタバコ嫌いに対して嫌悪感があるのである、ぼくには。

「最近の言葉で語感といい、意味合いといい、おっ、これいいなあと思ったのが『うざい』って言葉なんですけど、タバコをやめた人が、一転、タバコは迷惑って言う姿って、ちょうどぴったりそれですよね」と、タバコの迷惑を説いている元喫煙者に面と向かって言うぼくって、鼻持ちならないエリート意識の持ち主なんでしょうね、先生。

 

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次回の記事掲載は一回休んで一月十五日予定。

というわけで、今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

そしてさらに、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。とは、十二月二十五日現在、誰よりも早い新年のあいさつのはず。元旦に間に合うように年賀状を書いた人にはかなわないけどね。暮れも押し迫った時期に年明け気分をでっち上げて「あけましておめでとう」って書くのはどんな気分だい?

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2010年12月15日 (水)

紙コップの持ち方

Top_blueときにみなさん、みなさんは熱い飲み物の入った紙コップをどう持ちますか?

普通はこう↓ですね。

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冷たい物ならもちろんこれでいいけど、熱い物をずっと持っていると「アチチ、アチチ」になる。気の利いた店だと紙コップを二重にしてくれるけど、いつもそんな気の利いた店ばかりではない。自動販売機なら二重もどうもこうもない。「二重やとか一重やとか、そないなことは芸者のときにいう言葉」とやなぎ浩二も言っている。

で、ぼくはこう↓

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一見、取っ手がついているように見えるけど、そうではない。親指と小指でコップの上端と下端をはさんで持つ。すると手の平がアチチにならない。指ももちろん熱くない。副産物としてあたかも取っ手がついているように見える。おやおや、胸には「裏日の丸」のワッペンが見える。

この持ち方は『熱中時代/刑事編』で宍戸錠が持っていたやり方。ワッペンは百均のフェルトで手作り。

子どもの時にこの持ち方をテレビで見て以来、熱い飲み物のときぼくはこうしている。服にタバコで焦げ跡を作ってしまったときはワッペンで隠すことにしている。

これ、覚えておくとなんかのときにちょっと役立つかもね。

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2010年12月 5日 (日)

ZT ランチボックス/ZT the lunchbox

Top_redZTのランチボックスというアンプのレビューを書きます。モノを見かけてから一年有半、楽器屋で何度も試奏し、悩むこと幾星霜、意を決して買いました。

 

Zt

縦185mmx横250mmx奥行112mm重量4.8kg
スピーカー径6.5インチ
最大出力200W 平均出力120W
ツマミ/ボリューム・ゲイン・トーン・アンビエンス・ヘッドフォンボリューム
その他/ヘッドフォン(兼ライン出力)端子・スピーカーOn-Offスイッチ・スピーカー出力端子(8Ω以上)・AUX入力
メーカーサイトへ→)(輸入代理店へ→
実勢売価三万円前後(価格.comへ→)

大きさはミニアンプで有名なピグノーズぐらい。重さ4.8kgというとレスポールぐらいだからずっしり重いけど、普段使いの肩掛けかばんにも入るし、持ち運びは十分にできる。スタジオやライブハウスへ自転車のカゴに乗っけて行ける。電車でも、他にギターやエフェクターも持って行くから軽やかというわけにはいかないけど、ちゃんと持って行けます。コロコロを使うと楽だろうけどちょっと大げさな気がするし、その辺の兼ね合いは体調や天気と相談しながらということで。

これをランチボックスつまり弁当箱と称するアメリカ人は、なんだかんだといってもやっぱり大食いで力持ちなんだなって思います。裏ブタを開けて中身を取り外してカラにすれば、御飯が六合は入るんじゃなかろうか。ウチのおひつとおんなじ。

音量は平均出力120Wというとえらくでかく思えるけど、ワット数は大雑把な傾向でしかないからあまりあてにしないで。とはいえ、クリーン音なら、比較して言えばスタジオなどでの定番機種ローランドのJC-120(ジャズコ)でボリューム3ぐらいは出せる。歪ませるならもう少しいける。さすがにジャズコの10まではいかないけど(ジャズコの10なんて出したことないからホントのとこは知らない)、クリーン音でもでかい音のドラマーと十分に対抗できる。アンプから30cmの所で134db、1mで120dbの音圧、と説明書にはある。とりあえずでかい音が出る。もちろん小さい音はボリュームを絞ればいいだけのこと。プリアンプで部分的にデジタル処理をしているようだけど、パワーアンプはアナログ(真空管ではないよ)というから、相当効率の良い増幅をしているのだろう。大音量のとき本体の振動を防ぐにはある程度の重さが必要。それなりの重量があるのもワケがある。

低音は、箱の大きさやスピーカー径からしてそんなに出ない(全然出ないというわけではもちろんない)。ゆえに重低音重視のヘビメタや、ベースレスバンドでギターがベースパートを担当する場合なんかは不向きかも。最大に低音が出るようにして(つまりトーンを絞り切ってボリュームを上げて)スピーカーの目の前に立っても、胸が押しつけられるような低音は出てこない。ただ、ここは正しくは「重低音を出すのを得意としないアンプだし、ぼく自身低音をあまり求めていないからよくわからないだけで、もしかしたら重低音も十分な音量で出せるのかもしれません」と言うべきで、興味ある人は研究してみてください。ただ、あまりボリュームを上げてスピーカーの前にいると耳がやられますよ。と、家から追い出されるかもしれません。さらに近所から苦情ないしは通報される、と。

クリーン音はいたって素直。極端な音さえ望まなければ、カリカリな音からモコモコな音までカバーできる。イコライジングはトーンだけなので、本体だけで細かい音作りはできないけど、普通はこれで十分だと思う。必要とあらばエフェクターで補えばいい。バンド内でギターが担う音域は主に中音域から高音域。そもそも低音はあまりなくていいと考えれば、すっきりした音作りをしやすいアンプだともいえる。

歪みはアンプ本体では軽い歪み程度までで、シングルコイルのギターで十分な歪みを得るのはつらいかも。ハムバッキングならある程度までカバーできるものの、深い歪みとまではいえない。このアンプはジャズ系のギタリストにひっそりと人気があるという話をどこかで読んだけど、アンプ直でやるスタイルならジャズから、(ハードでない)ブルース、R&Rぐらいまでか。

ブースターをかましてゲインを稼いでアンプを深く歪ませると、細かめの歪みでなかなかにかっこいい音がする。この辺はあまり使う人のいないジャズコの歪みよりも使いでがある。いろんなエフェクターをとっかえひっかえ、それぞれどんな歪みの深まり方をするのか、これは十分に楽しめる。自作トレブルブースターや、ブースター的に設定したボスのブルースドライバーはかなりきてます。

クリーン音のみの使用で重低音を必要としないというなら、このアンプにまず文句はないはず。素直な音、無難な音、表現は色々できるだろうが、要は、変な癖っぽさがない。音は細かいことを言い出せばキリがないにしても、少なくとも、ギターを弾き始めて三十年、フェンダーデラックスリバーブⅡも所有し、それなりのギターをそこそこ持っているぼくにも納得の音である。エコー・アンド・ザ・バニーメンやZZトップがステージで使っているらしいけど、まあそういうこと。どこかのレビューで「このアンプ、くそ」みたいなのが書いてあったけど、この人はよっぽど趣味が強くてかつ口が悪い人か、音作りをするのが特別に苦手でかつその自覚がない人と思われる。

ぼくはなにはともあれディストーションのラットがあればおとなしくギターを弾いているので、さしあたりそれを歪み10時、フィルター2時、ボリューム2時ぐらいにセットして、クリーンに設定したアンプにつなぐのがお気に入り。うんうん、いい感じ、いい感じ。

といいつつ先日のライブでは、アンプを軽く歪ませといて(ゲイン7)、ヴォックスの真空管エフェクターシリーズのクールトロンのオーバー・ザ・トップ・ブーストを軽く歪ませたのをつないで使った。うーん、もうバッチリね。ボリュームは4で、それでもPAの人から「このアンプは大きな音が出ますね」と言われたし、ぼくの真横でバカでかい音のドラムが鳴っていても自分の音は聞こえたから(アンプを傾けて自分の方に向けるのも小さいから簡単)、いかに十分な音量が出せるかわかってもらえると思う。まだあと6も上がりますよ。バンドアンサンブルは即座に壊せますよ。

エフェクターだけで歪みを得るか、ブースターを足してアンプの歪みを深くするか、はたまたその合わせ技か、いやいやオレはアンプ直の歪みだけで十分だぜ、と、この辺は人それぞれ好みもあるし、研究のしがいがあるところ。アンプ単体で出せる音は限られているけど、エフェクターを使えばかなり幅広く音作りができる。家中の歪み物をつないで一通り確認したけど、楽しいね、こういうのって。

「アンビエンス」というツマミは、マニュアルによれば、ツマミを上げると音が立体的になって後方開放型キャビネットのシュミレーションになるということらしい。うーん、しかしそれはどうか、やや疑問。ツマミ5の辺りまではそういう雰囲気もあるけど、それを超えると安っぽいショートディレイでしかない感じ。ここは普通の「リバーブ」でよかった気がする(少し前までこのツマミは、機能は同じで「リバーブ」という表示だったみたい)。それよりも、ツマミを上げていくと軽いダブリング効果なのか中音域が引っ込み高低音域が増えてくるんで、とりあえず2.5にしといて音作りをしてから、仕上げで中音域の出かたを0~5で調整するようにぼくは使っている。ギターをフロントピックアップにして、軽く歪ませた音で、このツマミを5辺りに持ってくると、ローリング・ストーンズの『イッツ・オンリー・ロックンロール』のB面1曲目「ラクシャリー」の左チャンネルのリズムギターの音に近いボワッと感が出る。ちなみに、あれはきっとオープンGのテレキャス改造5弦ギターを、低音を上げ目にしたフェンダーツインリバーブで鳴らしていると見た。この記事を見た本人からの返答を求む。

歪みに関してはエフェクターで作ることを基本に考えた方がいいと思う。そして多分、このアンプを買う価値はおそらく一番ここにある。というのも、エフェクターで音作りをする人は、せっかく家で音を作りこんでも、スタジオやライブハウスのアンプで鳴らすと違う音になってしまうのに難儀をすることが少なくない。ところがこのアンプなら、家で音作りをしてそれをそのままボリュームを上げれば、それほど変わりなく再現できる。小さい音と大きい音とでは音の鳴り方が違うから、もちろんそのままに再現というわけにはいかないが、ありがちなパターンでいうと、家のフェンダージャパンやヴォックスの廉価版アンプの小音量の音と、スタジオやライブハウスのツインリバーブやマーシャルやジャズコなどの大音量の音との差ほどに違うということがない。これはでかい。

気合いが入った人であれば、これぞというそこそこの大きさのアンプをちゃんと買って、家でちゃんとそれを使って練習し、スタジオやライブハウスにもちゃんと車で持って行き、練習後や本番後も乗るなら飲むな、飲酒をちゃんと控える、なんてことをちゃんとするんだろうが、そしてそれをちゃんとできる人はそれでいいのだが、原付はあっても車はない、あっても飲酒運転をもうやめたぼくは、でかいアンプを持っていてもわざわざ持ち運ぶことはしない、もしくはできないのである。で、これまで多くの場合、定番のジャズコで妥協をしてきたのだけど、どうしても家のアンプとは音の出かたが根本的に違って、せっかく家で音作りをしても、その努力の半分ほどが捨てられることがしばしばだったわけである。

このアンプは音がでかいのが売りであっても、家で弾くような小音量もいい感じに出る。大音量も出る。そして小型。電池で動かすおもちゃのようアンプは別にして、ちゃんとコンセントから電源を取るアンプの中で最も小さいものの一つだ。ヴォックスの5WのデジタルアンプDA5よりも小さい(これはこれで楽しいアンプ)。しかも三万円前後と決して高くない。

Da5

このアンプの最大のライバルは、もしかしたらジャズコかもしれない。ジャズコの音が好きな人からすれば、もちろん全然違う代物だ。だが、そうでない人にとっては、つまり多くの場でジャズコで「妥協」してきた人にとって、音量が十分にあって持ち運びできるこのアンプは自分の新しい定番になる。特定のアンプが好き、という人はもちろんそれを買って使えばいいのだが、小型かつ大音量しかもお求め安いお値段という選択肢が増えたことは、ギタリストにとって想像以上に御利益がある。いつも同じアンプを使っていれば、ギター単体と、バンドでみんなと合わせた時とでは響きが違うということにもより理解が深まって、音作りの腕に磨きがかかるというものだ。エフェクターで歪みを作るギタリストや、はたまたこのアンプの音が好きになったらなおのこと、大音量アンプを持ち運びしない(できない)多くのギタリストにとって、このZTランチボックスは大きさと値段の負担が少ない、ほんとに使えるマイアンプになると思う。

注文をつけるなら、取っ手がたためるようになっていたら、かばんの中に入れたときに邪魔にならなくて良い(この取っ手はツマミを保護するという役目も兼ねているのだろうが)。

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それとスピーカーのOn-Off用のミニスイッチ。

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これはこの機種に限ったことではないが、何かにぶつけるとすぐ壊れるので、ぼくはこの手のスイッチが苦手だ。竹を切って保護枠をつけたけど、ここは横の電源スイッチのように波動スイッチなどの壊れにくい物にしてほしかった。

それと、電源を切ってすぐにまた入れ直すと、ボリュームを下げていても、ボコッとかパチッとかのでかいクリック音とともにスピーカーがブルっと震える。これは故障ではなく仕様(?)らしいけど、スピーカーによろしくない上に、精神衛生的にも非常によろしくない。よくある場面ではないけれど、こういう時はスピーカースイッチをオフにして電源を入れましょう。

でもそんな細かいことは置いといて、総合的に見てこれはとってもいいアンプです。

 

 

 

ギターアンプつながりということで、ピグノーズが壊れたのを機に中身をごっそり入れ替えた改造記事(「ピグノーズの改造、もしくは生まれ変わり」)も書いたので紹介しときます。興味のある方は読んでみてください。(ここをクリック

と、もう一回り小さい「ランチボックス・ジュニア」が2012年5月に発売されたようです。まだ見たことない。気になる。見たら欲しくなるかも。いや、もういらん。でも気になる。(ここをクリックで販売店サイトへ)

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2010年11月25日 (木)

物忘れ系

Top_blueウチではご飯を漬け床にしたご飯漬けをやっている、という話を前に書いた。

三日ぐらい漬けるとちょうどいい塩加減で、売り物とさして変わらないほどおいしく漬け上がる。といっても毎度毎度うまくいくわけでもなく、漬け忘れたままほっとかれるなんてこともしばしば。野菜が新鮮だと水分がたっぷりと出て、漬け床がべちゃべちゃになる。ご飯を足せばまた元に戻るけれども、そのまま漬け続けたところでいっこうにかまわない。まあその辺の按配はその日の気分といったところか。

大根は新鮮なまま漬けるとこれまたたっぷりと水分が出るんだけど、干した方が味が良くなるから、水分調整も兼ねてなるべく干してから漬けるようにしている。先日も買ってきた大根を四つ割にして洗濯竿にぶら下げた。天気によって干す日数は違う。様子を見つつ、いい感じに干しましょう、干しましょう。と思っていたら、気づくと、十日ばかり干しっぱなしにしてしまった。ありゃりゃ、すっかり水分も抜け、切り干し大根みたいにカリカリになってまったがね。いかんいかん。

よく見るとチビッとカビみたいなのもあったけど、まあ、よろしい、その部分は包丁でこそげ落とし、天に舞う排気ガスともどもよく水洗いして、水分多目の漬け床に投入。さすれば、着け床の水分を切り干し大根が吸ってくれて一石二鳥、という寸法である。もしかしたら、どえらい塩からくなるかもしれんけど、たまにはそういうのも良しとしましょう。これがうまくいけば、売り物の切り干し大根でもいけるということになりましょう。よろしい、よろしい。

にしても、水分多目の漬け床といい、干しっぱなし大根といい、実に物忘れな話である。

物忘れといえば、これも以前に書いたけど、ウォシュレットはぼく認定「ぼくが生まれた以降最もすばらしい文明の機器」である。その快適さは、「うんもう、すばらしい!」 の一言。しかしながらその快適さも、新聞を読んだりしながら用を足していると、事後にお尻を洗ったのかどうか忘れてしまうほどで、ときどきよろしくないことがある。

あれ? お尻洗ったっけ?

ほとんど手間なし苦痛なしの作業なもんだから、読み物に熱中すると、するべきことをどこまでしたのかわからなくなってしまう。しかしそこは、「多分さっき洗ったよなあ」と思いながらも、一応念のためにもう一度(多分、ね)お尻ボタンを押して洗っておく。なかなかに情けない話ではあるけれども、これが物忘れ系人間の身だしなみというものである。

今日は、「物忘れ系人間における食の最初と最後」みたいな感じのお話でした。おしまい。

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2010年11月22日 (月)

あなたも目撃者に!

Top_blueこんな看板見つけました。

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さあ、みんなも上鳥羽に行って世界一美しい街を目撃して、110番にじゃんじゃん通報しよう!

ぼくは美しい街を見つけられなかったんで110番通報できませんでした。残念。

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2010年11月15日 (月)

さっきふと思った

Top_blue新聞を読んでいたら、子どもにかける教育費は、なんと親の収入の三分の一を超えているんだそうな。平均で年収の37%。年収200~400万円の層では教育にかける費用がざっと170万円弱で、な、な、なんと50%を超えているという。所得階層が上がれば教育費も上がるものの、負担割合は低所得者層のほうが重くなる。親の年収は下がる一方なのに、教育費は上がり続けている。

イギリスでは大学の授業料が値上げされるというので、若者が暴動を引き起こすほどの騒動が起きている。フランスでは年金支給年齢が六十二歳に引き上げられるというので、高校生までをも巻き込んで連日デモ。世代を超えたゼネストのような風景だ。「私が学問をしなければそれだけ社会の損失になる」という腹を学生が持っているからこそ、学生は自身のストに意味を感じる。こうしたところでは、こぞって大学生を「生徒」と格下げして呼称してしまうような知性の劣化は起きにくいだろう。

ひるがえって日本では、支給年齢引き上げなんて生やさしい話ではない、ムチャクチャな年金だと露呈したところで社保庁の建物のひとつも破壊されるわけでなし、後期高齢者などという差別が保険医療現場に持ち込まれても何が起こるわけでない。収入に占める家賃や住宅ローンの住宅費の割合は四分の一を超えないようにするのが健全な家計には大事なんだそうだが、収入の三分の一以上の住宅費を払っている人は相当な数にのぼると思われる。それでも、歴代政府の持ち家優遇などというサビついた住宅政策に取り立てて疑問を持つわけでなし。英仏の人たちもよく見よ、我ら日本人のこの我慢強さを。見よ、この慎ましくも奥ゆかしい家畜のような従順さを。

お金をかけて子どもを育てることは「未来への投資」というドライな金銭感覚というより、大人の子どもを通しての「未来への希望」とでも言うべきものだろう。親は黙っていても子どもに莫大な教育費をかけている。それを社会的に面倒を見ることに何のためらいが必要なんだろうか。

ぼくのブログは、「長い。長すぎる」としばしば言われるので、そそくさと結論を書きます。教育は高等教育にいたるまですべからく無償にするべきだ。それが世の中のためになるというもんである。以上。

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2010年11月 5日 (金)

お釜におひつ

Top_yellowすっかり冷えてきました。長い夏休みを終えて、ブログを再開します。

くそ暑い夏が九月のおしまいまで続いてぐったりしていたら、十月に入ってようやく涼しくなりそろそろブログを書かねばと思っていたものの、なんか書く気が起きず。値上げに備えて大量にタバコを買いだめしたら家から出る用事もあまりなくなり自然と家にこもっていたんだけど、それはそれでぼくとしてはとても精神的に平衡がとれていて非常に心地よかったのです。

なんか最近の若い子にとっては「友だちがいること」がとても大切なことらしく(「友だちが大切」ではないよ)、大学の学食で一人で食事するのを人に見られるといたく傷つくんでトイレの個室でこっそりと飯を食ったり、ケータイのアドレス帳に何百という「友だち」が登録してある、なんてことがあるらしい。これってほとんど強迫神経症でにゃーか? 若者も大変だね。でもね若者のみなさん、心配することはない、あなたのことなんて誰もそんなに見てませんよ。

ぼくの場合人に会わなくても精神的な平衡がまったくくずれない。というかむしろ快調で、そんな自分を思うに、ぼくには「友だちがいること」はあんまり大事なことなんじゃないのかしら? これはこれでどうしたものか。

あの、あの、もちろん「友だちは大切」だと思ってますよ。もちろん、もちろん。

そんなことはどーでもいいとして、ウチでは何年か前からお釜で御飯を炊いていて、電気釜は保温用にしか使ってなかったんだけど、その電気釜が夏に入った頃のある日、ホンワカとお焦げの匂いを発してぶっ壊れた。もう二十年以上使っていたんで寿命ですね。天寿をまっとうしたと思います。

さっそくネットで電気炊飯器を見てみる。「お釜で炊いた御飯の再現」を謳う高級電気釜なみの御飯は、多分、今もうすでに炊いているわけだし、ウチにウン万円もする電気釜はいらない。羽釜杜夫。買い換えるとすれば七・八千円ぐらいのやつか。うむうむ。

しかし考えてみれば、保存用だけなら木のおひつという選択もありか。というわけでネットで見てみる。下は三・四千円から上はウン万円までいろいろとある。うむうむ。

木のおひつは味がさらに良くなるとネットの「評価」に書いてあるものの、電気釜と同じ金額を出して、片や御飯が炊けて保温もでき、片や保存だけ、というのはなんとも悩ましい。

ええい、ままよ、モノは試し、と、木のおひつを買うことにした。どっかに売ってないかなあとあちこち荒物屋やホームセンターを回ってみると、売ってなかったり、あっても一万数千円。高いね。仕方ないのでネットで購入。四千円ぐらいのやつ。後日近所のホームセンターに行ったら商品が補充され、ほとんど同じ物がほぼ同じ値で売られていた。くそっ、送料損した。

炊き立ての御飯を木のおひつに移すと余分な水分が飛んでよりおいしくなります、なんて能書きにあったけど、電気釜でも御飯を炊いて下と上を入れ替えるように混ぜ返しているうちに余計な水分はある程度飛ぶ。

この「御飯が炊けたら下と上を入れ替えるように混ぜて・・・」というのは、ぼくはもうすでに学生時代一人暮らしのとき、何度も御飯を炊くうちにそれをやるのとやらぬのではずいぶんと味が違うのに気づいていたから、台所を預かる人たちにとっては当たり前のことだと思っていた。そしたら、その何年後かの新米の季節にテレビでコシヒカリの産地の農家のおばちゃんがご飯のおいしい炊き方を伝授するというのをやっていて、御飯を混ぜ返しながら「これを忘れたらいけませんよ」とえらく重要なコツのように言うと、被伝授者たちが「へえ~、そうなんですか」と驚いたんで、ぼくは逆に「これは常識ではなかったのか」とちょっとびっくらこいたことがある。おひつが当たり前の時代にはおひつに移す際に自然とやっていたおいしくなる作業を、電気釜になってからは意識的にやらないといけなくなったということなんだね、きっと。

ということで、このブログを読んだ人は、今後おいしい御飯のために、蒸らしが終わったらちゃんと下と上を入れ替えるように混ぜ返しましょう。みなさん、もっとおいしい御飯を食べましょう。予約炊きして朝炊けたまま三十分もほっとくと味は落ちます、多分。ああせっかくのコシヒカリが、ああせっかくの新米が・・・。

木のおひつの冷や飯もうまいことはうまいけど、冷えたままではなんなのでチンして食べる。電気釜で保温した御飯は味が落ちるとか言う超グルメな人もいるみたいだけど、おかわりのたびにいちいちチンするのもナンダカナアだし、そもそも炊くたんびにおひつに移すのって結構めんどくさいよ。味と手間とを考量比較すればどっちもそれなりに分がある。結果だけを云々するグルメは家庭にいらない。

木のおひつに炊き立ての御飯を十分ほど入れてから食べると余計な水分も飛ぶうえに、木の香りもほんのりと移り・・・、とかつまらない能書きを聞いている間に早くご飯にしよう。おなかすいたもんね。

夏場の保存はどれぐらいいけるか体を張って確認したところ、晩に炊いたとすると、次の日の晩には食べ切っておきたいところ。翌々日の朝は敏感な人はやめたほうがいいと思う。ぼくは翌々日の昼食分を焼き飯にして食ったけど。今の季節なら普通にいける。

しかしまあ、我が家はふと気づくとお釜で御飯を炊き、木のおひつに保存し、と、それだけ聞けばえらくグルメっぽい。冷蔵庫にはお手製御飯漬けもあるしね。おおナチュラル~。

本物志向っていうんですか、自然志向っていうんですか、なんだか小っ恥ずかしいエコな事態になってきたなあ。おお、やだやだ。生活を見直さんといかん。今度コンビニに行って、ソルビン酸ナントカやら赤色何号やら保存料・着色料込み込みの一日三十品目を達成するぞー。

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2010年7月25日 (日)

お上品な人たち

Top_yellow何年も前になるが、レポーターとして関西地区ではそこそこ有名なタージンが、カレーうどんの上手な食べ方というのをテレビでやっていた。確かにカレーうどんは気を抜いて食べると服にカレー汁のしぶきが飛んで始末に悪いから、食べるのにそれなりに気を遣う。

その食べ方というのは、要するに丼の真上に顔を持っていって、そーっとすするみたいな風だった気がする。

とほほな話である。いつの間にやら世間では丼を置いて食べるのが普通の食べ方らしいが、そもそも丼は手に持って食べるのが基本。多くの国では器を手に持たないことがマナーだそうだけど、日本では丼や茶碗は手に取って食べるもの。カレーうどんも基本通り丼を手に取り、口元に近づけて食べるだけのことで、よっぽど豪快さんにすすらない限りしぶきもまずは大丈夫、なんだけどね。

とはいえ、最近は店も何を思ってか丼を持つことを前提とせず、器を持とうにもチンチコチンに熱いことがあるもんだから、丼を置いたまましぶきが飛ばないように食べる工夫をした挙句、上記のごとく、品のない“上手な食べ方”が良しとされることになる。

なんかいろんなことが一気に崩れ去っている感じ。

先日、立ち食いそば屋に行った。その日は天下の祇園祭の宵山。通りは歩行者天国で出店も立ち並んでいたけど、だしの匂いに誘われ店に吸い込まれてしまった。そこではいつも220円のかけうどんかかけそばを頼むんだけど、その日は祭り気分に引かれて、高くて普段めったに食べないざるそば370円を注文(安いっちゅうの)。

ざるそばは、ざるとそばちょこと薬味皿が一つになった器に盛ってある。器には穴が開いていて、そこにそばちょこをはめ込むようになっている。こういうの家にあったら楽しいかも。

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さすがに今日はお客さんが入れ替わり立ち替わり。そばをすすっていたら、五十代ぐらいの中年カップルが入ってきた。

男の方はかけそばを注文。テーブルに置いたまま腰をかがめて、犬のように丼の方へ顔をもって食べていたが、そういうかっこ悪い風景はもうすっかり見慣れたワン。

びっくりしたのは女の方である。彼女はざるそばを注文したのだが、そばちょこを置いたままそばをつゆにつけ、腰をかがめ、ちっちゃなそばちょこへ顔をもっていって麺をすすっているのである。

な、な、なんちゅう・・・。

最初ぼくは、彼女は手を怪我しているのかと思ったんだけど、空いた片手は上品そうに小指を立てて宙をプラプラ。

そばちょこを持つのがそんなに嫌か。そんなに重たいか。

そばちょこを置いてそばをすするその食べ姿は、みっともないにも程がある。立ち食いに品もヘッタクレもないと言われる向きもあるだろうが、それにしても、である。とうとうここまで来たかと感慨にふけりながら、ぼくはさっさとそばをすすって店を出た。

別の日のこと。食べ物持ち込み可のライブがあって、友だちが寿司を買って持ってきた。ライブ後、ビールをこぼしたかなんだったか忘れたけど隣にいた女の人に、「お詫びにこのバッテラ、どうぞつまんで」と友だちがすすめたら、「やだー、夏場なのに生ものは恐いわあ」だと。冗談めかしながら丁重にお断りしたつもりだったのかもしれないけど、いやはや、今後我が国では酢の立場は一体どうなってしまうのであろうか。

わけのわからぬお上品さがはびこる世の中になったものである。

クジラやマグロに関して日本の食文化がウンヌンされているけれど、ベタの所での食文化はかなりのスピードで変化、というよりも崩壊していると思われる。米飯給食でも牛乳を出すような食文化の破壊を学校が率先してやっているのだから、それも詮方なしか。

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ということで、しばらく夏休みに入ります。次回掲載は暑さの盛りも過ぎ去った九月頃。

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2010年7月15日 (木)

チンする

Top_blueNHKの番組だったかで、日本に住む外国の人が「母語にあったらいいと思う表現」に、どこの国の人が言っていたか忘れたけど「チンする」というのがあった。

ほうほう、面白いところをついてきました。レンジで温めるのは今やとても普通のことだけれどもなかなかに現代的なものだから、それを一言で表わすのはどこの言葉にもあるというわけでもなかろう。というか、きっとほとんどない。

チンする。ぼくが子どもの頃ウチにやってきた電子レンジは確かに「チーン」と鳴っていた。それで、「チンする」。それがいつの間にやら多くの電化製品でベル音はなくなってしまい、レンジでもほとんどは「ピッピッ」と電子音に変わってしまっている。レンジが「チン」と鳴る経験をすでに持たない人もいるだろうに、言葉だけは残った。今、リアル「チンする」は電子レンジではなくオーブントースターだけど、オーブントースターに「チンする」とは言わない。言葉は変化もするが、半面、語源の内容に変化があっても表現が固着したままのこともある。

今ネットで見てみたら『日本俗語辞書』というサイトに「チンする」の項目があったけど、まあ、普通の辞書にはこの先もずっと載るまい。

こういう言葉を「発見」するのは、日常的な使用者よりも「外(もしくは周辺・周縁)」の人間である。言葉だけでなく、その土地のいいも悪いも含めて特徴を発見するのは、そこの住人よりもむしろ旅行者だったり、移住者だったりする。

話は少し横にそれるけれど、時折、外国の日本史研究者が描く歴史は日本を理解できていないという批判がされることがある。しかし、むしろ外から見たほうがよく見えるということはある。日本人なら言わずともわかる(だろうと想定される)内在的な論理や情、機微といったものが、それによって当の日本人にかえって歴史理解を曇らせるというのはありがちなことだ。その内在的論理そのものを歴史対象として扱うなら、日本人にはなおさらにバイアスがかかっているだろうことは常に心にかけておくものだ。が、「外国の人間に何がわかるか」と言わんばかりの批判を、とりわけ民族主義的、国家主義的な日の丸野郎はしたがる。困ったもんである。

それはそれとして、夕飯の支度の手伝いで「買ってきたコロッケ、チンしといて」と言われて、実際には「チン」と鳴らないレンジではなく「チン」と鳴るオーブントースターで温め始めたとしたら、それはレンジで温めるよりもこんがりしてむしろ正しい調理法ではあるけれども、意思疎通という面から眺めるなら間違っていることになる。「いや、チンと鳴らないレンジで温めることをいまだにチンすると表現する方が、事実との整合性のない間違ったことだ」と主張がなされるならば、これは解決が難しい問題となる。さらに、コロッケはソースにするのか、マヨネーズも添えるのか、この場合のソースはコーミソースにするのかツバメソースにするのか、はたまた、とんかつソースやお好み焼きソースを使ってみるのはどうであろうか、いや待て、マヨネーズは添えるのではなく今日はマヨネーズだけで食べたいぞなどと、悩みは食事が終わるまで尽きないのである。

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2010年7月 5日 (月)

ファン そのあまりかろきに泣きて

Top_yellowぼくは阪神タイガースファンが嫌いである。タイガースに対しては嫌いも好きもないけど。

その故は、彼らの多くは結局のところ自分たちだけがよければいいのであって、野球(界)のことなぞどうでもいいという態度がありありだからである。早い話が、「タイガースファン」であって、「野球ファン」ではない。

何年か前、近鉄バッファローズやオリックスブルーウェーブ、南海ホークスなどパ・リーグの在関西チームがガタガタになった時、そのチームのファン以外の関西人は特段悲しんだわけではない。それもこれも、タイガースがその混乱に巻き込まれなかったから、ただそれだけのことである。ひとり、野球解説者の江本孟紀だけが「こんな事態になったのは関西人の恥ですよ」と言っていたぐらいだろうか。

自分さえよければいいという点において、タイガースファンとジャイアンツファンとはさして変わりない。巨人の「東京中心主義」のストレートな傲慢さとは違うけれども、関西人のアンチ東京という屈折した感覚は、ハタ目で見ていて非常にうっとーしい。「反中心主義」でもなんでもなく、二番目でもいいから中心でありさえすればいいという感性。なんか、最近の「地方分権」や大阪の「都構想」にも似ているような。

サッカーのワールドカップ。ぼくは子どもの頃、世代的にサッカーよりも野球をくぐり抜けてきた口で、サッカーにはあまり関心がなかったけど、テレビでワールドカップを観て(1982年のが最初になるのかな?)、そして1986年マラドーナのあの伝説の「五人抜き」「神の手ゴール」の試合を当時テレビで観て、バキューン、心を打ち抜かれた。おー、サッカーは体を使った芸術だ!

1994年イタリア対ブラジルの決勝戦、最後の最後PK戦でバッジオが外した瞬間の映像は、今もテレビで見ると体の力が抜けてしまう。

サッカーに関してぼくは遅がけのデビューで、ほとんどやったこともないし、見るだけなので、難しいことはよくわからない。でも、Jリーグが発足した頃、しばしば日本のサッカーを観て、「ホヘ?」と腰が砕けそうになった。ちょうど、高校野球を観て「甲子園ってこんなに広かったっけ?」と思うのとおんなじ感覚を覚えた。これはサッカーと言っていてもぼくの感動したサッカーと同じものではない。

そんなこんなでぼくはアルゼンチンとイタリアのファンなんだけれども、他の「世界レベル」の各国チームやクラブチームはどれもこれもすごい。ワールドカップのグループリーグでB級チーム同士のしょうもない試合を観てストレスがたまった後にブラジル戦を見ると、なんでもないように見えるプレイでも、実はとんでもない技術に裏打ちされていることがわかる。ブラジルの場合そうした技を持った選手たちが、これまたよく走り回る。そりゃ強かろう。「走るのが基本」と改めて認識。

日本がワールドカップに出るようになって「にわかサッカーファン」が増えた。「にわかサッカーファン」とは、ちょっと小バカにした言い方に聞こえるかもしれないが、自分もそうだったし、自国チームの活躍を応援するのは至極当たり前のことだから、マイナスの意味を持たせているわけではない。経緯も知らずパッと見で「いい!」と思うのをにわかファンというなら、子どもなんてその最たるものだけど、子どもに支持のないジャンルに未来はないのと同様、むしろにわかファンがつかないジャンルは大したことがない。

ただ、ぼくがワールドカップで日本チームを応援する姿を見ていてハナにつくのが、日本を応援することをきっかけにしてサッカーファンになっていくのではなく、日本が勝ちさえすればそれでいいという感じが見受けられるところ。その姿はちょうど、ぼくが嫌いなタイガースファンと重なる。弱くても応援し続けるのは立派だけど、自分とこ以外にあまり関心がないというのはいただけない。いつまでも子どものまま、ガキのままではいけない。ワールドカップに四回も出ているというのに、いつまでも成長がないのは寂しい。

1998年のワールドカップのグループリーグで日本がアルゼンチンと同じになった時、「これは勝てんわ。無理だ。っていうか、調子づいてもらうためにアルゼンチンの大量得点をちょっと期待」なんて言っていたら、友だちが結婚した日系ブラジル人の嫁さんに、「なぜ日本を応援しない!? そんな弱気でどうする」と言われた。そういうストレートなことをブラジルでサッカーの洗礼を浴びてきた人間に言われても・・・、ねえ。少しうらやましかったけど、案の定日本はアルゼンチンにいいようにされましたわね。

自分のところが最高と思っていても、現実にはそうではなく、「世界レベル」に遠く及ばない時の反応がいかにも見苦しい。こういうことを現代史について言うと「自虐史観」だなんだかんだと騒ぐバカヤロ様が出てくるけど、もうちょっと冷静になったらどうですかい。素人が大騒ぎしている情報番組に出演して、ポツンと取り残されているサッカー解説者がかわいそうになってくる。

サッカー通だという作家の馳星周が新聞に書いていた(2010.7.1 朝日新聞)。いわく、日本は最弱のカメルーンと初戦で当たるという僥倖に恵まれ、自信を取り戻し、強運も味方にしてグループリーグを勝ち抜けたというのに、決勝トーナメントではいつものひ弱な日本チーム、すなわち、勝ちたいではなく負けたくないチームに逆戻りしてしまい、戦わずして負けた。日本はトルコに負けた八年前から何ひとつ進歩していない。死力を尽くして戦って負けたのなら、わたしは地団太を踏んで悔しがっただろう。だが実際には、日本がパラグアイに負けて残念だとは思ったが、悔しくはなかった。ゴールを決めた選手たちの歓喜のダンスの中に、選手を鼓舞すべき岡田監督の姿が果たしてあったか、もしもこれがオシム監督だったら・・・・・・と、暗に岡田監督という人選ミスも批判しつつ、ワールドカップの日本チームについての感想を述べていた。

さすが作家先生、うまいことまとめている。確かに、日本の敗戦後、残念だったという声は多く聞かれても、悔しがる声は少ない。そして、はっきりしていることは、あのしょうもない日本対パラグアイ戦でサッカーの魅力に取りつかれたという人は稀有だろうということだ。

お祭り騒ぎもかまわない。ほろ酔い気分で見るのも自由。情報番組でイケメン選手を選ぶコーナーがあってもよい。だけれども、情熱空回り系の番組司会者や実況アナ、サッカーに愛があるのかどうかもわからない「がんばれ日本」の映像を見るにつけ、これはまったくの泥酔状態ではないかね。大本営や北朝鮮と何が違う? 「絶対に負けられない勝負がそこにはある」って、一体何事が起きるんかね。

野球ではここまでひどいことになってない。歴史が違う、と言ってしまえばそれまでだけど、それにしても、こういうはしゃぎっぷりは見ていて悲しい。いくらワールドカップは戦争代わりだといっても、いくらサッカーではなにが起こるかわからないといっても、ものには限度がある。

大体、「優勝」だなんて、選手が言うならいざ知らず、太平洋戦争で大日本帝国がアメリカに勝てると本気で思ったようなものじゃないの? 「気合いで勝ち抜くのだ!」なんての、もう嫌だし。精神的に弱かったらそれは話にならんけども、チャラけた気分で周囲が優勝とか言わんといてほしい。目の前の勝負をしっかり見んといかんに。

それと、日の丸に応援の言葉を書き込んであるのは、あれだけはいかん。大日本帝国的武運長久系戦勝悲願とおんなじに見えて、マジで気持ち悪い。君が代だけでも我慢がならんちゅうに、んもうっ。

にしても、「夢をありがとう」って、夢まで人に与えられてイヤにならんのかね、キミたちは。「感動をありがとう」って、本当に感動した時にありがとうなんて言うかね、フツー。ぼくの知っている「夢」や「感動」とは違うものなんだろうなあ、多分。軽い夢に、安い感動だぜ、まったく。ああ、たまらん。

たわむれに「ありがとう」と言い、
そのあまりかろきに泣きて、三歩あゆまず。

日本を応援するのもいいけど、もう少し世界レベルのサッカーの芸術を楽しもうじゃないかね。そこのチームのファンなら激烈に興奮できて、なおのこと楽しいよ。

ところで、「侍ジャパン」。なんで「侍日本」でないのか。ここまで横文字、というか英語に媚を売る姿はいかにも「芸者ジャパン」な感じだけど、それはそれとして、この「ジャパン」というのは、「日本」の「日」の字を「ジツ」と読む「ジッポン」というのが古く中国での読み方だったらしくて、それがなまって「ジャパン」になったんだそうな。知っとった? まあどうあれ、「ニッポン/ニホン」も音読みなわけで、非常に限定的にしか使われない「やまと(大和)」以外、日本は自国の地の言葉での国名を持たない国なのでした。面白いね。

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2010年6月25日 (金)

来週の土曜日

Top_blue先日、先輩が店長をしている店にみんなで飲みに行こうということになった。その一週間前の日曜日、店に、「今度の土曜日にみんなで飲みに行くんで、よろしくお願いします」と予約を入れた。

すると、しばらくして友だちから確認のメールが来た。「来週の土曜日やったよなぁ?」。ぼくは一瞬、「来週?」と思ってしまった。

みなさんも想像されたし。日曜日の夕方、笑点のあとサザエさんを見ている頃に、「来週の土曜日に…」と言われたら、いつの土曜日をパッと思い浮かべますでしょうか。

カレンダーの多くは日曜日で週が始まっている。それに従えば、週末は土曜日。となると、日曜日に言う「来週の土曜日」は次の次の土曜日ということになる。

ぼくはいつの頃からか、週始めが日曜日のカレンダーに違和感を持つようになった。特にお寺関係では法事は大半が日曜日で、最近では土曜日が増えてきて、そういうふうだと、土曜日と日曜日が連続していないのは気持ち的にしっくりこない上に、不便。なので、普段使いのシステム手帳のスケジュール帳は月曜日が週始めのを使っている。最近買い替えた携帯電話は、カレンダーが週の始めを日曜日と月曜日から選べるようになっていて、これももちろん月曜日を週始めに設定してある。

となると、週の始めは月曜日、週末は日曜日だから、日曜日に言う「来週の土曜日」は次の土曜日になる。こちらの方が、最後を休息日とした「週」の趣旨からいっても正しい。一般に、週末とは土日のことを指すしね。

しかし、いかんせん、口では土日を週末と言いながらも、「日曜日週始め」のカレンダーの方が圧倒的なのが現実。ぼく自身しっくりこないと言っても、あちこちで目にするのは日曜日始まりのだから、日曜日始まりが体のどこかに染み着いてしまっている。日曜日に言う来週の土曜日はどっちの土曜日か、パッと見ではやはりちょっと迷う。どこでどうなって日曜日を週の始めに書くようになったのか知らないけど、困ったもんだ。

昨年末、本屋でやっていた手帳フェアで、いいのがあったらシステム手帳から乗り換えようかなと思って見ていたときも、日曜日が週の始めのが大半。工夫を凝らしていて「これはよさげ」と思ったのがことごとく日曜日始まりのだったから、結局は買えずじまいだったくやしさを、この記事を書いていて今思い出した。

「そうかあ、こんなところにも正しさと現実とのせめぎ合いがあったんだあ」と思った、友だちからのメールだったことです。

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2010年6月19日 (土)

スカパーいらず

Top_yellow スカパーに入らなければサッカーのワールドカップの全試合を観れないというんで、日韓大会の時にスカパーと契約したんだけど、ワールドカップが終わってその他の番組を観ると、大学の放送部のようなレベルの番組ばかりだったんで、前回のドイツ大会後に契約を取りやめた。アンテナとチューナーは友だちにやった。

今大会も「スカパーは六十四試合全部放送。そのうち二十試合は独占放送」なぞと、わけのわからない状況は相も変わらず。

Photo_2とりあえず、ストローでブーブー笛を作って、それに広告紙で作ったラッパをセロハンテープでくっつけて(おら、ピンポンパン世代!)、お手製ブーブーゼラを作って観戦態勢に入った。ブーブー、ブーブー。

そうしてから、インターネットでどっか無料で映像を流してないだろうかと探りを入れることにした。

まず見つけたのがJustin.TV という動画サイト。しかし、ここは試合が始まると、モノが違法だからか、バツバツと放送が切断されてしまい、どっか他にやっていないかと探しているうちに試合が終わってしまう。「こりゃいかんがね」と根性決めて探していたら、とうとう見つけましたよ。

http://www.lankafootball.com/

サイトの見出しを見る限りでは、どうやら「六十四試合全部放送してやるぜ」という感じに見える。

画像は汚いけど、そこそこ観れる。全体に薄いモザイクがかかった感じで、引きの画では選手の見分けがつかない不鮮明さだけど、しかし、男子諸君においてはモザイクの向こうの真実への眼力があるはずだから、特に問題はないと思われる。観れないと思っていた試合が観れると思えば、これで十分である。実際の放送とのタイムラグは、試合によって十秒のときもあれば、五分ぐらいのときもある。なんで?

検索してもこのサイトの情報がよくわからないんだけど、urlと放送の雰囲気から考えるに、これはスリランカのスポーツ専門チャンネルかしら。それとも番組開始の時間を見ると、その時差から南米のどっかにも思える。よくわからないけど、今のところ切断されていない。このままであれば、もうスカパーはいらない。FIFAなんかは放映権がどうだとか小うるさそうだけど、ぜひともほっといてほしいものだ。ブーブー。というか、ほっといてくれ。おお、FIFA。スポーツマフィアの旦那様よ。ああ、おねげえだ、ナイキ様、アディダス様、お代官様ー、許してくだされー。ブブブ。ブブブ。

Photo_3 ここで何試合か観ていて感じたのは、実況が(多分)英語なんでよくわからず、それでかえって試合に集中できて、非常に具合がよろしい、ということであった。NHKはまだいいとして、民放の実況はホント、どうにかならんもんかねえ、という思いがより強くなるのであった。解説者のマイナス思考の話を聞くこともなくて大変によろしい。サッカーの解説者って素人のおれでもわかることをだらだらと解説して、いやいや、解説ならまだいい、解説ではなくてマイナス系の感想ばっかりで、どうせ感想しか言わないなら、もっとプラス思考でやってほしいものだと思う。点を決める瞬間でも、ムダな感情移入と感動の大安売りで盛り上がる実況を横目に、点を取る側でなくて点を取られた側に立って、冷静沈着にマイナス思考のことをしゃべり続ける解説者って一体なんなんだ? 少しはホメたれよ。ブーーーー。

他の国でもインターネットで放送しているところがあるらしいけど、そういうところはその国からでなければつながらないような仕組みにしているらしい。技術というのは人を幸せにするもののはずだけれど、ここでの技術は「放映権」という権利をふりかざして、放映権料、つまり金稼ぎのために使われている。ブーブー。

日本がカメルーンに勝った翌日、テレビの街頭インタビューで、初めてワールドカップを観たようなおっちゃん、ねえちゃんたちが、「やっぱり日本が勝つと、うれしいよね」と言っていた。そう、スポーツというのはみんなが幸せになれるんである。そういう機会をより多くするためには、無料の地上波で放映する方がいいに決まっている。技術というのは、そのために使うものなんである。

ところが、実態はスカパー独占放送二十試合。強豪国でもあり日本サッカーの大恩人でもあるドイツや、今大会優勝候補筆頭のスペインのグループリーグが、地上波では三試合中一試合しか観れない。こらーっ、フザケとんのかーっ! ブーブーブーブーブーブーブー。

大体、岡田監督が「目標はベスト4」と言っていながら、三位決定戦がこれまたスカパー独占放送。万が一にも、もとい億が一にも三位決定戦を日本がやることになったらどうするんかね。このことに誰も文句を言わないのは、岡田監督のベスト4発言をみんなも、ぼくのように失笑してしまったのかね。プププ。今大会、「日本では盛り上がりがもう一つですね」なんて言われているけど、それはオシムが病気でやむなく監督を辞任して、後任が岡田だとわかった時、潮が引くようにシラけていったとしてもですよ、三位決定戦を地上波でやらんのはいかんのでないか、とぼくは思うわけですよ。ブーブー。聞くところによると、ワールドカップ本戦出場を決めた際、選手にボーナスが出てもおかしくなかったのに、サッカー協会は、「目標はベスト4だ。本戦出場ぐらいでボーナスは出せない」と、岡田失笑発言を逆手にとってケチなことを言ったという。最低だと思わんかね、みなさん。なんか、なにもかもが最低ではないかね。ブブブー。

この前読んだ朝日新聞ロンドン特派員の小ネタ記事(六月十七日付国際面『放送法万歳 W杯中継』)にいわく、「イギリスではサッカーやラグビーのワールドカップや五輪、ウインブルドンなどイギリスになじみ深いスポーツの十大会は必ず全試合を地上波で放送しなければならないと、1996年の改正放送法で決められている」と。八十年代にイギリスでも衛星放送がスポーツ放映に乗り出し、中継が有料になったため、庶民のスポーツが縁遠くなったことが背景にあったらしい。

今の日本でこんな法改正をすれば、「とんだ行政介入だ! それ、規制緩和だ! やれ、小さな政府だ!」と(今なおでかい顔をしている)新自由主義者たちが大騒ぎしそうだけれど、資本主義を生み出したヨーロッパでは、えてしてこうした生活に直結する場での規制がかえって日本よりもずっと厳しい。フランスではバーゲン期間中、周辺の個人商店保護のため、デパートのバーゲン期間から売り出し広告の文字の大きさにいたるまで、事細かな規制があるんだとか。

まあ、それよりもなによりも、日本でのメジャースポーツは野球と相撲だけ、サッカーはまだまだマイナーだもんね、っていうことか? 評判のよろしかった事業仕分けで五輪の強化選手のことが仕分け対象になった時、「○○はマイナースポーツじゃないのかね」と特定スポーツを名指ししてさらし者にするような国ですもんね。日本はフィギュアスケートのメダル常連国だけど、国際的に見ればスケートなんざ雪国か金持ちの国しかやれない、南国にはほとんど関係のないマイナーなスポーツじゃないかね。仕分け人は偉そーになにをもってマイナーと言っておるのか。実に恥ずかしい話です。ブブブーッ。

2010w_2それはそれとして、上記のサイトの画像は汚いから、FIFAは静かにしているのかもしれない。そこらの事情をぼくは知らないし、今後いつ切断されるかもわからない。もしかしたらちゃんと「放映権料」を払っているのかもしれない。いずれにせよ、技術というのはより多くの人を幸せにするために使うものであって、一部の人間が儲けるために使うものではない。その原点に立ち戻って、インターネットという新しい技術を使いこなせば、我が国日本においては、スカパーなぞという腐れ衛星放送にサッカーファンは頼らなくてもよくなるのである。通信と放送の融合でも何でもいいから、とにかくワールドカップぐらい全部ただで観せろー。日本が出場しなかったら地上波は決勝トーナメントだけとか、もっと酷いことになるんだろうかねえ。寂しいねえ。やだねえ。ブブブだねえ。

変な所をクリックすると、ポップアップが消えなくなったりするちょっと困ったチャンなサイトだけど、がんばれ、Lanka Football!

それよりも、がんばれーアルゼンチン! 優勝してー!

そういえば、野球賭博がダメならトトカルチョがあるでしょう、角界の人たちよ。警察利権に守られたパチンコ業界(景品交換所、ここは明らかに「違法」です)をほったらかしにしといて、角界叩きにいそしむマスコミなんかに負けるなよ。大体からして、博打に公営もヘッタクレもあるかっちゅう話である。賭け事なんて、フツーのことだろが。野球賭博や賭け麻雀が違法なのは、法律で禁じられているから、ただそれだけ。よくないから違法なのではなく、違法だからよくないとされているだけのことだ。酒と大麻の違いみたいなもの。競馬、競輪なんかの公営博打とそれ以外の博打とに本質的な差は何もない。

アルゼンチン、優勝するー! ブブー、ブブー、ブブー、ブブー、ブブー・・・・・・・・。

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2010年6月15日 (火)

二十年一日

Top_blue_2自転車で三分くらいのところに時代屋という居酒屋がある。焼き鳥や釜飯が売りで、酒は地酒を中心に置いてあるのに気取ったところもなく、値段は安めで味もおいしいんで、時々同居人と行く。近くに大学もあるし、週末はいつも混んでいる。

先日も行ってきた。近所なんで家着からズボンを履き替えるだけの恰好。その時に上に着ていたのがローリングストーンズのTシャツ。

PhotoPhoto_3 

これは、ローリングストーンズの初来日ツアーを東京ドームまで観に行った時に買った物。普段着にしている二十年物の割には、生地とプリントが疲れてきたぐらいで、破れたところもほとんどなく、丈夫なもんだなー。

その時のツアーでは、初日も含めて何回か観た。初日のアンコールでは、メンバーの再登場を待つ間、早く出て来いとの期待をこめて、誰からともなくライターに火が着き始めた。客電の落ちた会場でフワーっと火が広がっていく様は壮観だったなあ。二時間近くも観た後だったから、そのままタバコに火を着けてアンコールの舞台を観る人もたくさんいた。

何日かして次に観にいった時には、入場の際、「客席でライター等、火を着けないようお願いいたします」とチラシが配られていた。無粋だねえ。ロックじゃネェよォ。

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そういえば、帰りの道端で、今は亡き中島らもと今も在るみうらじゅんが、雑誌かラジオかテレビか知らんがインタビューを受けているのを見かけたなあ。

それはそれとして、このTシャツを着て居酒屋のカウンターに座ると、その日もたくさんいた学生に、「これを見よ!」と言わんばかりに「1990」と初来日の年が背中で訴えている。考えると、それはぼくがちょうど店にいる学生たちと同い年の頃。もうあれから二十年経つんだね・・・・・・。

ちょっと待てよ。二十年ということは、この学生たちが生まれた頃じゃないか。ということはですよ、それはつまり、ぼくが学生の時に、万博のTシャツ(があったかどうかはさておき)を着ているおじさんを見るのとおんなじようなもの、っちゅうことではないかね。おお~。

物持ちがいいのもここまでくると、このTシャツ、「1990」と主張しているだけに、やけに歴史的な物に思えてきた。物に歴史あり。

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2010年6月 5日 (土)

ケータイのケータイストラップ

Top_blue「鳩山首相辞意を表明」。テレビが速報を打った。ぼくはすぐさま同居人にケータイニュース速報を打つ。「鳩山が辞めるんだと」。

すると、部屋の隅から、チャラリラ~ン。

またやっちまいましたね、同居人。忘れてますよ、携帯電話。「ケータイ忘れとるよ」とメールをさっそく打つ。

すると、再び部屋の隅から、チャラリラ~ン。・・・・・・。おっ、そうか、そうか。

「同居人ーっ、ケータイ忘れてますよーっ!」。ぼくの声は同居人に届かない。

同居人はしばしば携帯電話を忘れて出かける。一度、職場に届けたこともあったけど、携帯電話を忘れた時に、どこまでだったら取りに帰るかというニューウェーブな悩みも、同居人にはあまり関係ないようである。

それはそれとして、あまりにもよく忘れるので、以前、同居人の持ち忘れ防止のために、ライター大のケータイ型アクセサリーを作ってやって、それを自転車の鍵の近くにぶら下げさせた。さすれば、携帯電話を忘れていても、自転車に乗るときに、「おっ、そうだ、そうだ、ケータイ、ケータイ」と相成る寸法である。そして、それはここ最近ずっとうまくいっていた。

が、ここにきて、ケータイ型アクセサリーも自転車の鍵開けの際の「いつもの風景」になってしまったようである。これはテコ入れが必要である。慣ればかりはどうしようもないもんね。

その日はちょうど、去年の夏に買った麻布で夏向けの帽子を作っている最中だったので、事のついでにもう一回り大きいのを作った。ぼくの裁縫は実用性重視なので、手芸の分野は苦手なんだけど、ヨイショ、ヨイショと作ってやったのである。ありがたいと思え。

で、これを、前のやつを外してから、自転車にぶら下げた。これでしばらくは安心である。

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(左:今回の作品  真ん中:初代  右:本物)

真ん中の初代のは、思わずケータイストラップにしたくなってしまうけど、それでは携帯電話持ち忘れに役立たない。 でも、もう大丈夫。ケータイに着けてもいいよ。

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2010年5月25日 (火)

とりとめなく伏見

Top_blueNHKの大河ドラマに取り上げられると、ドラマにゆかりのある地はにわかににぎわう。今年は『龍馬伝』。大河ドラマとは関係なしにいつも観光客でにぎわっている京都も坂本龍馬にあやかって、あちこちで龍馬、龍馬である。

先日、同居人が駅に置いていた自転車を京都市に持っていかれ、保管所まで一緒に取りに行った。同居人はバスで、ぼくはバスを追いかけて自転車で行った。ざっと十五分ぐらい。で、そのついでに、そこから十分ぐらいの伏見の大手筋商店街に行ってきた。

このあたりは、酒どころ伏見といわれるように、月桂冠や黄桜などの酒蔵が集中している。大手筋商店街の西端を南に折れて、そのまま龍馬通りと名づけられたアーケードを抜けると、龍馬ゆかりの地の大本山の一つ、寺田屋がある。せっかくだしと、ちらりと前を通りかかったら、やっぱりたくさんの観光客がいた。同居人いわく、「なにもここに来たからって福山雅治に会えるわけでもないのに、ぎょうさんいるなあ」。まあ、そりゃそうだ。っちゅうか、そんなこと誰も期待しとらんわね。

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まわりは観光名所やお店ばかりでなく、普通の家やマンションも建っていて、普段は、言ってみればちょっとにぎやかな住宅街。そこに警備員が立ち、観光バスがドカーンと細い路地にまで入ってきて、おー、さすが大河ドラマパワーよ、と再認識した次第である。かといって、寺田屋の真向かいの家ではなんかの大工仕事をしていて、あんまり観光と関係なさそう。というか、まったく関係なさげ。

斜め向かいに定食屋があった。

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店先の品書きを見ると「ざるそば350円、オムライス450円、カツカレー480円、・・・」。安いっ! 

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ちょうどおなかが減っていたので、店に入ると、観光客とは関係ない風情で、老夫婦二人だけでやっている古いお店。龍馬ブームなんてどこ吹く風、知らない演歌歌手のポスターがドーンと張ってある。テーブルについて品書きをよく見ると、表のお品書き以外のもまた安い。「きつねうどん320円、玉子丼350円、中華そば380円、カレー400円・・・」。うーん、安くって困っちゃう。悩みに悩んで、おじちゃんに中華そばとカツ丼を注文。

「出前も致します」ってお品書きにあって、やっぱり観光客向けというより地元向けなのね。

いいですねえ。こういう古びた定食屋。落ち着くわあ。

この前、加藤周一の映画を観に行った時も、始まる前に食事しようとしたんだけど、京都シネマというミニ映画館の入っている、何年か前にできたおしゃれビル内の飲食店はことごとくおっしゃれーな店。高いばっかりで、これでは落ち着きそうにもないね。で、結局、周辺の繁華街からポツリと取り残された、家族三人(と見た)がやっているビル近所の定食屋で、夜のお得セット(めん類と丼物のセットで880円)を食べた。ここもまた、とても落ち着く。

街なかの店がドトールやサイゼリヤや各種チェーン店みたいなのばかりになっていくこの御時世、こういう店はなくなってほしくないなあと思う。今どき、新規でこういう店って、まずないもんね。古びたってなると、いきなり「町屋風」なぞとお金のにおいがし出して、いやみな感じだし。

さて、近所に住んでいると観光地なのか、商店街至近の住宅街なのかよくわからない大手筋周辺。十年ほど前、新潟へ旅行に行って、夜行列車で帰ってきたその日の昼、古い酒蔵を記念館として観光客に開放している伏見の酒蔵を初めて観て周ったんだけど、新潟と伏見との酒どころ対決は、観光地として百戦練磨の伏見の勝利、のような気がしたのも事実。やっぱり、ここ伏見は観光地なのだな。

そんな中でもマイペースな「はなふさ」、がんばれ! みなさまも、寺田屋へ行った際には、ぜひ。

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2010年5月15日 (土)

ティッシュさん

Top_blue整理整頓のうまい人がいる。ぼくはそういうのがからっきしダメで、どこにいても十分もすればぼくの周囲は物が散らかりだして、だんだんとそこが「ぼくの場所」になっていく。

家も、もともと物が多い上に、なかなか捨てないものだから、どんどん散らかっていく。たまに気合いを入れて掃除をしても、なにか小汚い感じ。整理整頓が上手な人というのは、ちょっとばかり散らかしても、なんか小綺麗。くやしいぜ。

テーブルの上に物がない家があると時折噂で耳にすることがあるが、ウチでコタツの上に物がない状態なんてのは、ない。常に物があって、食事のときにズリズリと横によける。

こういうのは性格みたいなものだから、もうあきらめているけれど、なんとかなるならなんとかしたいもんだねえ。

それはそれとして、いつの頃からかティッシュの箱が薄くなった。最初はネピアだったかが「ティッシュ革命」と称して、ティッシュの枚数はそのまま「200組/400枚」で薄型の箱のを売り出した気がする。すぐに他のメーカーも追っかけて薄型のを売り出したけど、箱の裏をよく見ると「160組/320枚」。今では大半がこういうのになってしまった。この革命、総合的な結果として、なんかダマシっぽい。

思い返せば、ぼくが子どもの時は、「ティッシュ」なんてのはまだまだ駆け出しで、学校にはハナ紙を十枚ぐらい四つ折にしてポケットに入れて持っていたものだ。ポケットティッシュは遠足用のちょっとした特別な物。それがいつの間にか街頭で配られるまでになり、生活必需品になって、ナプキンとして食事中にお口をフキフキなどというお上品なことも普通のことになった。

ティッシュ箱は幼児のいる家では手の届かない所に置いておかないと、「一枚取り出せばまた一枚」の不思議さに、延々と取り出され、あっという間に部屋がティッシュであふれかえることになる。それはまるで私たちの心の汚れを覆い隠してくれる雪景色のよう、などと余裕をもって見られる大人ばかりではない、世の中は。かくして、こまったちゃんからティッシュ箱は遠ざけられる。

家庭内での地位はもちろん様々だろうけど、ティッシュ箱の置き場所が決まっている家もあるようで、中にはドアノブや電話と同様にカバーをかぶせて、まるで調度品級の扱い。しかしながら、当然、我が家でそんなことは望むべくもない。適当に手近な所にあり、ティッシュを取り出しても、帰るべき「所定の場所」はなし。

ふと考えると、ぼくは、ティッシュを使い切るまでに箱を潰さないで終わったことがないような気がする。すなわち、部屋がとっ散らかっていて、脱いだ服や新聞の下にティッシュがまぎれこみ知らぬ間に踏みつけたり、コタツで居眠りして寝返りのときに下敷きになったり…。

ということで、ぼくは、突然ですが、新しいティッシュを開けながら、「これからはわたくし、ティッシュ箱を潰さずにティッシュを使い切ります!」と心に誓いました。さすれば、少しは部屋をきれいにしておこうと心がけるんとちゃうやろか。

同居人、どうぞよろしく。

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2010年5月 6日 (木)

サトウニス

Top_blueいやはや、原稿を飛ばしてしまいました。前の記事で自分の声に落ち込みつつ、無口になってゴールデンウィークに突入。同居人とずっと一緒に過ごしていたら、調子狂うわ、五のつく日の「ゴビ連載」のブログのことをすっかり忘れてしまいました。このまま次の「ゴビ」まですっ飛ばそうかとも思ったけど、それもなんなんで、このゴールデンウィークでの話をちょちょちょいと。普天間の話ではないです。

というわけであれですね、寿司っていうのはすごい量の砂糖を使うものなんですね。

先日、ゴールデンウィーク恒例のバーべキューに行ってきたんだけど、ここ最近いつもぼくは鯖寿司と稲荷寿司を作って持っていく。で、ぼくは砂糖が苦手で、寿司をたらふく食うといつも、酒で悪酔いした以上に気分が悪くなるんで、自分で作るときは代用砂糖を使っているんだけど、バーベキューの時ってよく考えると、ぼくは二切れか三切れぐらいしか食べなくて、ほとんどは人が食べる。だったらなにも高価な代用砂糖を使うことはありますまい。

ということで、今回は砂糖を使って作ることにしたんだけど、その前に売り物の味はどんなものだったかと、稲荷寿司用に味付けしたおあげさんを買ってきて、あらためて味見してみた。そしたら、これがまた、おあげさん単体だとてつもなく甘い。めちゃめちゃ砂糖使っとるなあ、これは。それに寿司飯を詰めて食べてみると、うん、確かにこれは売り物の味である。なるほど、なるほど。

で、その味を参考に、稲荷寿司のおあげさんを炊いてみた。だし汁にしょうゆ、酒。いやいや酒はやめてみりんだな、ここは。それから砂糖、砂糖、と。で、砂糖をたっぷり入れて味見をしてみる。すると、ぼくの料理勘からすればとうに限界を超えた砂糖を投入しているのに、まだまだ市販品ほどに甘くない。まだ入れないかん? うーん、うーん……。あと一つだけスティック砂糖を入れて、もうやめにした。

鯖の酢締めの際にも、ぼくにすれば相当に砂糖を使った。寿司飯にもエイヤッとドバーッと砂糖を入れた。

で、出来上がりをそれぞれ味見してみたんだけど、市販品の甘さにまったく遠く及ばない。一体全体どれだけ砂糖を入れとるんだ、売り物の寿司は。そういえば、だいぶ前に買ったことのある「すし太郎」もめちゃくちゃ甘かったなあ。

きっとぼくの感覚からすると、酢に砂糖を溶かすというより、砂糖の中に酢を垂らしこむ、という感じに近いのかもしれない。ケーキを作るぐらいに砂糖を使う感じ?(作ったことないけど)。もちろん市販品のはうまいんだけど、ぼくにあの味は作れない。今回をもってあきらめることにした。塩味を適当に利かしたやや甘のさっぱり味の方が、ぼくとしても料理勘が働いて安心だし、それはそれでみんなはおいしいと言ってくれるので、その言葉、お世辞半分と受け止めつつ、そういう風で良しとしましょう。

お稲荷さんって、寿司飯にワサビやカラシを混ぜるととてもおいしいね。鯖寿司は、次は焼き鯖寿司に挑戦しようと算段中。

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2010年4月25日 (日)

知らない声が一人

Top_yellowブログをやっているのに、ここで告知するのをすっかり忘れていたけど、先日ライブをやった。

一人でやり切るには力不足なんで、ゲストで友だちや同居人にも協力してもらった。よく行く食事&飲み屋さん『バリバリインドネシア』(ここをクリックでゴー)でやらせてもらったんで、お客さんはなじみの顔がほとんど。終わりの頃にはほぼ宴会状態になって、一応のライブ終演後(いわゆる「アフターアワーズ」って言うんでしょうか)にはまた一段と盛り上がり、ぼくはかなりの祝祭気分になってしまった。あれはお店でやっているというより、その場にいた人たちがそれぞれに「自分の部屋」感覚ではなかったか。そういうのってライブとしてはどんなもんかとも思うけど、まあ、よいよい。さらに、なんかのパーティ後の団体外国人が終わりがけにやってきて、さあ大変。♪のーうーまんのーくら~い~。えぶりすぃんごなびーよーらいっ。音楽で国際交流。ボブ・マーリーは偉大です。音楽の力はすごいなあと、あらためて思いました。

みんなと一緒にとても楽しい時間が過ごせてよかったです。

ところで、ちょっと前に小さいポータブル録音機を買った。家の外で使うのは初めてだったんで、半分実験のつもりでそれを店の隅っこに置いて録音してみた。演奏を始める前に録音スタート。ふと気づけば、そのまま七時間以上回りっぱなしになっていた。つまりは演奏だけでなく、店内の会話までもが盗聴なみにばっちり録音である。最近の電気機器の省電力化は目ざましく、単三2本なのに偉いもんである。

ただ、録音の方は、家で聞き返してみたら、窓から吹き込む風の音でゴオーッと低音ノイズが鳴りっぱなし。置き場所も考えず、マイク部に風防スクリーンをつけなかったことで見事失敗した。残念。途中で確認するぐらいのことはせよという話ではあるが、まあ、よいよい。こういう時の録音物というのは聞き直さないほうが身のため、精神衛生上にも良くないというのが演奏家においては一般的な認識なので、録音に失敗してもそんなに落ち込むことはない。ハナから録っていなかったと思えばそれでよろしい。

それよりもなによりも、低音ノイズの中の音を聞き返していて(もちろん全部じゃなくて、飛ばし飛ばしね)ぼくが嫌だったのは演奏の方ではなく、会話から聞こえてくる自分のしゃべり声であった。誰でもそうだろうけど、録音した自分の声というのは自分自身に聞こえる声と違って、別人の声に聞こえる。知っている声の中に一人知らない声。それがつまりは自分の声なんだけど、これまでに何度も自分のしゃべり声を聞いているものの、あらためて聞くとすごくスケベっぽい。そうそう、俺はこういう声だった。いやだなあ、変な声だなあ。なるほど、これではモテんはずだわ。歌声は特段特徴があるわけじゃないのに、なんでだ。逆やろ。

しかし、まあ、声そのものはどうしようもないから百歩譲るとしても、それ以上にどうにもこうにも嫌だったのは、お酒とライブで興奮状態になっているから、ぼくは何か一言しゃべる度に合いの手のように「ヒャヒャヒャ」と笑っていて、自分のことながらそれだけでもうっとーしいのに、その笑い声がなんとも下卑た笑い声なんである。マジでヘコんでくる。もう、やだ。

そしてさらに、しゃべり方が嫌味なほど自慢げ。ぬおー、ぐおー。なんかこう、いちいち、俺はそれをできる、それに苦労した、どやどやお前にはそれがないだろう、どやどや、ヒャヒャヒャ、みたいな嫌味な言いかたの連続で、録音の中の自分にむかって、シバイタロカー、シバイタロカー、シバイタロカーのリー5世気分になってくる。

スケベな声、下卑た笑い、自慢げな口調。「こいつとは仲良くなれん」。ぼくは自分にそう思った。

録音の中のぼくは時間とともにさらに興奮していき、下卑た笑いと自慢げな口調はさらに拍車がかかり、聞き進む内にぼくはかなりペコペコにヘコんでしまった。録音に失敗したとはいえ、演奏内容は決して悪くなかったのに、なぜ、なぜ、このような伏兵にしてやられねばならぬのか。ヘッドホンで聞きながら楽しいあのひと時の情景を思い出して、再び「うふふ」と一人思い出し笑いしているのに、自分のしゃべり声が聞こえるたびに気分がどんよりする。

ぼくとしゃべっていて、もし「こいつを黙らせたい」と思ったら、そっと隠し録りしておいて、すぐに再生してぼくに聞かせれば、ぼくは涙を浮かべて黙りこくると思います。そんな面倒なことをしなくとも、ただ「あなたの声が嫌いです。しゃべり方も嫌味だと思います」と言えば、目の前でぼくは霧となって消え去ることでしょう。雲散霧消。私は貝になりたい。

同居人は、「もうずっとそういう声なんやから、みんなそんなこと思ってへんって」と言うが、うおおおお、おれはずっと生き恥をさらしながら生きてきたのかあー・・・。

やっぱり録音物を聞き返すのは精神衛生上よくありません。

みなさん、こんなぼくと仲良くしてくれてありがとうございます。

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2010年4月15日 (木)

今は秋

Top_blue 夏が嫌いなぼくは、その分冬が好きである。三月になって春を感じる頃になるといつも、「ああ、冬が終わってしまうんだなあ。夏が近づいてくるんだなあ」と、少し気分が落ち込んでいたんだけど、ぼくは今年の春から考えを変えた。

今は秋である。

気温だけ見れば、むしろ秋よりも寒い。そう思えば、春の生暖かい風もさわやかな秋風になるというものである。「心頭滅却すれば、火もまた涼し」とかって言うじゃないですか・・・。

おお、これはなんと。ひどい精神主義である。「心頭滅却すれば・・・」とぼくが大真面目に言い出したら、それはぼくの精神の死である。その時は、坊さんやめます。

そうそう、先日『坊主DAYS』という、臨済宗の寺に生まれた漫画家が、住職をやっている実兄に取材をして、お寺の様子を描いた漫画を読んだんたけど、それを読みながら思い出したのは、どこで読んだか忘れたけど、大日本帝国の軍隊は臨済宗の修行法をかなり参考にしたらしいということ。あのくだらない軍人的精神論を補完する一つに臨済宗の修行法が利用されたというのも、なるほど、であった。不合理を合理化していく際のなにがしかの飛び越えはどんな宗教にもあるものだろうが(「合理・非合理を超越する」と言っても、その超越への指向自体が合理化の作用である)、安易な飛び越えは、実に恐ろしい。「絶対矛盾の自己同一」なぞも似たようなもの。この論理も軍国主義イデオロギーに見事かすめとられた。漫画家自身はむしろ好意的に寺を描いているんだけど、そこで描かれるお寺の様子は、漫画家のお寺への視線自体ともども、えも言われぬいやらしさがあって(好意的であるがゆえになおさら)、ぼくのもっとも嫌いなお寺のステレオタイプであった。普通の人のお寺のイメージって(宗派に関係なく)こんなものなんだろうなあと思ったけど、もしぼくが同じ坊主といえども浄土宗ではなく臨済宗の坊さんだったら、もっともっと分裂症気味にふるまっていたことだろうと思ったものである。

さて、そんなことはどうでもよろしい。それよりも問題は、この季節の灯油の残りである。三月の終わり頃、この先の天候に気を遣いながらストーブの着け消しをして、灯油が余らないようにしても、まあ大概余る。四月の中頃になっても使い切れず、夏を越させるわけにもいかないので、これこうしてストーブを着け、少し汗ばむ中でブログを書かなくてはならないことになる。

余った灯油の利用法、その一。雑巾に灯油を染ませれば、化学雑巾の「サッサ」になるという話を聞いたことがある。けど、やったことはない。その二。バイクのどこぞにあるフィルターを洗う時に、灯油の中で揉んで汚れを取る。これもやったことない。なんかもう少し普通の利用法はないでしょうか。

おお、そうか、「灯油」と書くぐらいだから、ともし火に使うか。って、そのための道具は? 皿に灯油を張って灯芯に火を着けてっていう風でいいんだろうか・・・。いかん、いかん、こんなに物がとっちらかった部屋でそんなことをすれば、火事の元。

涼しくなったばかりのちょっと早い秋にストーブを入れて「まだちょっと暑い?」とか言っている気分で過ごすのが、一番適切かもしれない。だって今は秋だもの。

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