出生率1.25
出生率が1.25だそうである。過去最低だそうである。大変なんだそうである。
少子化の理由に、「子どもを育てにくい社会」とか「将来の見えない世の中」なんてことがあげられることがある。それはそうに違いない。
けれども、保育所などの施設や働く親のための受け皿など、今よりもっと条件の悪かったぼくらの子どもの頃のほうが、今より子どもの数は多かったし、もっとそれ以前、子どもの将来は兵隊さんか従軍看護婦、などという、親にとっては何のために産み育てたのか、お先真っ暗な時代のほうが、よっぽど子どもの数は多かったのである。こうしたことを経験してきた子育ての終わった世代の中には、「今時の若者」の子どもを持ちたがらない理由は、「なにを甘えたことを・・・」みたいな違和感を覚える人がいるのかもしれない。
日本に限らず、先進国はおしなべて少子化していくものである。出生率が2.1程度であれば人口は維持されるが、それ以下になると人口減少が始まる。それでは国力は落ちる一方なので各国はいろいろと手を打つわけだが、そうした国々の中でも少子化の流れが止まった国というのをみると、共通して女性の権利が整備されている国だという。
よその国の「整備された女性の権利」というのがどういうものか詳しくは知らないが、わが国日本の女性の地位の低さだったらぼくにはよくわかる。たとえば、ここ何年来の雇用の不安定化―――派遣労働・パートの増加は男性にも等しく降りかかってきたわけではなく、女性にヨリひどい形で降りかかってきている。職場での待遇の女性差別は今なおバリバリの現在進行形である。「女性の意識の向上」は進んでも、今もって世の中は男性中心に回っている。そう考えると、「女性の意識の向上に見合った社会になってないこと」がここまで進む少子化のホントの理由なんじゃないかと、ぼくには思える。
戦争に負けるまで選挙権さえなかった当時の女性の地位が低かったことは論を俟たない。当時、いくら子どもが育てにくい世の中であったとしても、国の発展を基礎づける出産・育児や、また、これを敷衍化した「年頃になれば結婚をして子ども産んで育てるのは当たり前」という「常識」は、女性の立場の弱さ、意識の低さにシワ寄せして成り立っていたということだろう。
子育ては楽しい、子育ては親をも育てる、なんて言いかたがされる。確かにそういう側面はあるだろう。けれどそれは、そういう言葉を語らなければならないほどに、子育ては負担だということでもある。
女性の意識は日本でも、まだ不十分であるとはいえ、すこぶる向上している。先進国に共通する少子化の流れとは、経済的発展にともなって権利意識が向上したにもかかわらず、子育ての負担を押しつけられたままの女性の反乱ではないのか。そして、その反乱に見合った政策や文化を構築できた国だけが少子化の流れを緩めることができているのではないか(女性の権利の拡充は、男性の権利の拡充でもあるのはいうまでもないことだ。念のため)。
女性を産む性としか見ない見方はもちろんフェミニズムと相容れるものではないので、権利の充実があっても産む/産まないは女性の自由だ。だが、女性の権利の充実がない限り、少子化問題がまともな形で解決しないのだけは確実なことだろう。
いまだに婚外子への差別を容認し、夫婦別姓にさえ反対する議員たちが言う「少子化対策」は、おそらく女性の意識の向上に見合った社会の構築ではなく、逆に、女性の立場、意識の低下を望むものであろう。実際、彼らは、「ジェンダーフリー」を目のカタキにし、ジェンダーの固定化を前提にした「家族の絆」を叫んでいるのである。
彼らのような「保守」派が、国民に対して「国を愛せ」などとトンチンカンなことを声高に言いたくなる焦りもわからぬではないが、しかし彼らのようなの考え方は、選挙では負けていないにしても、少子化という形で、見事に若者からケツをまくられていることに、早いところ気づいたほうがいい。彼らのような言い分では、もうこの国を「保守」することはできない。彼らの論はすでに亡国の論になりつつある。
小泉首相は少子化を受けて、「昔の貧乏の頃のほうが、よほど子だくさんだった。金のかからない話もあるのではないか」などと言っているという。「昔の貧乏の頃のほうが、よほど女性の立場は低かった」ということにおそらく気をまわすことのないであろう彼が、どういう心もちでこの発言をしているのか、なんとなくわかるよね。「そりゃあ純ちゃん、離婚もするわ」、と差別的な茶々を入れたくなるというもんである。
彼らや、その周囲の「保守」的な論客たちが真剣な顔をして言う「少子化対策」は、「やれるもんならやってみ、さらに子ども減るし」な失笑レベルだから、なんといいましょうか、安心して聞いていられる。けれども同時に、そうした議員たちがいまだに大量に選ばれているような国である。「その人民の民度に見合った政府しか持てない」というのは、少子化問題に限った言葉ではないが、そろそろまともな議会を選べる民度を持たなくては本当に沈んでしまうよ、この国は。
日本の出生率が2を超えることは、ここしばらくはまずないだろう。その片方で、地球全体でみれば、貧困地域を中心に人口は爆発的に増加中だ。そんなことを受けて、少子化が進んだ分だけ外国人労働者が入ってくれば、労働力不足など、少子化が引き起こす影響を食い止められる、というさめた話もあるわけで、これはつまりは、資本の世界史的作用ということだ。「日本人」は減るかもしれないけど、「日本の国土で生活する人」はそう変わらない、という寸法だ。そうやって入ってきた人たちを「日本人」にしてしまえば、問題は一気に解決だ。
とはいうものの、少子化の流れが緩やかになった国でさえも、外国人労働者、移民との異文化摩擦は先鋭化しつつある。ましてや、国内の女性の権利さえまともに解決できない国が、外国人労働者をまともに扱うとは、ちょっと考えられない。少子化にろくに対処ができないまま、国内で貧困層を形成していくであろう外国人労働者を差別する時代にずるずるとなっていくとするなら、うーん、これはこれでちょっとした悪夢ですなあ・・・。
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ロック好きなら「ボブ・ディランしか聴いてない時期」というのをきっと一度は通るものだ。いわゆる「うまい歌」からは遠く離れた歌い方なのに、なんだこの磁力は! 曲自体も、他人がカバーするのを聴くとめちゃめちゃいい曲だということを改めて思い知り、ほとほと感心する。このアルバムだけで三週間は過ごせる。フォークの神様をロックが包摂していく瞬間をこのアルバムで感じとろう。






























