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2009年1月の記事

2009年1月25日 (日)

苦からの解放へ

Top_redかつて、普段の暮らしで使われていた井戸やかまどは、時代とともにほぼ過去の遺物となった。それに替わって、水道やガス、電気が普及した。いわゆる「ライフライン」というやつである。

しかし、いったん災害が起きると「ライフライン」は一気に破綻する。災害復旧はけが人の手当てとともに、「ライフライン」の復旧がまず急がれることになる。この「ライフライン」も、普段から井戸や薪、炭を使った生活だったなら、たいしたダメージを受けることも少ない。この点に関しては、今の「ライフライン」は非常にもろいものだ。普段の暮らしなら水道やガスのほうが、井戸やかまどよりも圧倒的に便利だが、いったん急があるとまったく使えないものになる。こうした「ライフライン」のありようは、非日常を忘れた日常のもろさを見事に表現している。

「規制緩和」だとかで、あちこちで大型小売店が作られている。スーパーどころではない、メガ、ギガなストアだらけである。そこには確かになんでも揃っている。しかし、車がなくては、そこになかなかたどり着くことができない。

大型小売店の建設は、爆弾が落とされたかのように地元の商店街や小売店を直撃し、その周囲の生活は一変する。車を使える家庭以外はどこにも買い物へいけなくなる。車を使えない老人家庭は生活が破綻する。たとえたどり着いても店内が広すぎて、年寄りの日々のちょっとした買い物にはまったく不向きだ。大型小売店はまさに、「老い」を忘れ、年寄りを隅に追いやっている現代社会のありようそのものである。

決して豊かとはいえない収入の人たちが買い物を安く上げようと行くのは、地元の商店ではなく、労働賃金の安い周辺国から資本が買い叩いてきた商品を並べている百円ショップである。貧乏人の財布から出ていった金は資本に吸い取られ、地元でなかなか金が回らない。

生には老、病、死が含まれている。仏教では生も含めて、生老病死を「四苦」ととらえるが、今の社会のありようは、生の「つらくない部分だけ」を都合よく取り出して、そこを中心にして成り立っている。老病死を隅に追いやるだけでなく、生のつらい部分さえも都合よく忘れ去って生きようとしている。生活の中から死が遠ざかったと言われるようになって久しいけれども、実際は、死ばかりではなく、老も病も「つらい生」も遠ざけようと躍起だ。

弱者を切り捨ててようやく成り立つ社会が、はたして幸せなのか。無駄を切り捨てて効率的に生きるだけの社会に、幸せは成り立つのか。いつ病むかわからず、いずれ老い、いずれ死ぬ存在だということを忘れた生きかたのその先に、はたして幸せが待っているとでもいうんだろうか。

人は有限な存在だということを忘れて、どうやって無限の生命とつながることができるというんだろうか。死という決定的な非合理を含んだ生を生きる人間にとって、部分的な合理性しか通用しない社会が、ほんとうの意味で合理的な社会といえるだろうか。

目指すべきものは非日常を内に含んだ日常、非合理を内に含んだ合理、有限を内に含んだ無限だろう。「障害」をその人の個性として生きられるような社会だろう。

ところが、現下に広がりつつある社会は、「負けを内に含む勝ち」という上からの恩恵的社会(これが再チャレンジ可能ということだろう)ですらない、素っ裸の競争社会だ。いつになったら、弱者を弱者のままに放置し続ける社会から決別できるのか。

生老病死を疎外したいびつな生。この愚かさを自覚する機会なぞいくらでもある社会なのに、その愚かさを自覚することなく邁進する社会。見事に疎外意識が疎外されっぱなしの社会。

自らの愚かさの自覚をうながし、愚者をそのままの姿で救う浄土教。自分を疎外する社会を自らの手で作り出す社会のありようを解剖し、疎外克服を「その社会の中」から目指すマルクス主義。浄土教徒として言うならば、愚者の自覚の深浅にかかわらず愚者をすくいとる阿弥陀の本願を信じて云々、と言うべきだろう。マルクス主義者として言うならば、階級意識のあるなしにかかわらず疎外された人間をすくいとるような社会変革を目指して云々、と言うべきだろう。

宗教者は、哲学、ましてやマルクス主義なんぞは世界観がなくていただけない、と言う。しかしそんな人は、もう少しマルクス主義を勉強して誤解を解いたほうがいい。マルクス主義は「哲学」といえども、「必然的に実践を要求する哲学」と自己規定していることの意味を考えるべきだ。マルクス主義者から見れば、宗教なんて時代に置いていかれた過去の遺物扱いだろう。しかしそれは、宗教と社会科学との間に、まったく無駄としか言いようのない壁を勝手に作っているだけのことであって、それは知性の退行でしかないと了解すべきだ。人民を指導する役割が前衛党の特権だと考えるのは思い上がりもはなはだしい。

経済とは「経世済民」、すなわち世を経て民を救う。人間疎外を告発した若きマルクスが経済学へと向かったのは、産業社会において必然だった。

宗教と社会科学は苦を解放するための両輪だ。社会科学を無視ないし軽視する宗教に現代的意味はない。

また、科学が「人間の幸福」を目的に持たないなら、人は科学に裏切られ続けるだろう。

 

万民の苦からの解放を求めるぼくにとって、浄土教とマルクス主義と、その両者の間にはほとんど距離がない。

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行間ツメツメ

Top_yellow パソコンでいろんなサイトを見ていて思うのは、その行間の狭さだ。本格的なサイトはいざ知らず、一般的なブログはほとんどそう。本の場合だと行間は一行分ぐらいあるものだけど、パソコンだとぎっしり詰まって次の行へ移る。読みにくい。長い文だとなおさら読みにくい。

パソコンでEメールを始めた時、改行して一文字分落とすそれまでの段落替えと違って、一行空けの段落替えに違和感があった。今ではすっかり慣れたけど、そういう「ルール」もネットでの行間ツメツメの表示が影響している気がする。

一段落に一文、二文程度が続く文章はなにか「重さ」がない。むろん「軽さ」を狙って書かれた文章ならば問題ないんだけど、軽い内容でない文章でも、行間ツメツメの読みにくさを嫌って改行せざるを得ない。行間ツメツメを無視して意味内容にしたがって改行を少なく書けば、どんどんと読みにくくなる。

ぼくは、内容にもよるけど、ほっとくと一段落の中に結構文を詰め込む。ぼくに限らず、ちょっと長めの文章では、ざっと五~十文程度でひとつの段落を構成するものだろう。段落替えというのももちろん意味あってのことで、そこで文章や意味の流れを切るためにやるものなわけだけど、ところが、ブログやメールなんかだと意味の流れというよりは、「見た感じの読みやすさ」優先で、一文か二文、三文書いて段落替えなんてのが普通になってくる。

どころか、「いかにもこれブログです」風情な若人のサイトでは、

こんな感じでぇ

なーんか

一言ごとに

改行~ぉしよおよぉ!!!

 

みたいな

みたいなあ~~~~

 

句読点も

ナシッ!scissors

 

みたいな~~~~~~~~!!!

 

キャ~ッ\( ̄▽ ̄)/ 

なんてえのを見かけるが、ここまでくると意味や流れの区切れというより、完全に見た目優先の段落替え、というより改行である。もちろんこれはこれでネットならではの新しい表現だけど、これとおんなじことを書籍でやられたら、こざっぱりしすぎで、金払って本買って半ば騙されたわ感を味わってしまうことになるだろうと思う。

詩というのは、意味内容だけでなく見た感じも重要だ(ろう)から、詩集はこれまでもこんな感じの改行であった。まあ、ぼくは詩というものにほとんど面白さを感じたことがないからどうでもいい話なんだけど、そういう世界に最新のブログでの表現形態が近いというのも、ぼくとしてはなんか感慨深い。 詩ってはっきり物言わんしなあ。書いている本人はそれが美しいと思っているんだろうけど、そういうのって「言語明瞭意味不明」の世界に通じているような。詩に書かれた「言葉の美しさ」をほとんど共有できないぼくには、「勝手にやっとけば」の世界である。

話がそれた。

記事本文はせっかく見た目読みやすくなっているのに、「コメント」欄が改行なしでぎゅうぎゅう詰めの文章になっているのを見かけると、なんか人の家に土足で上がってきたような違和感があったりして、ふむふむである。そもそもが、ネットの行間の初期設定がもう少し広くなっていればよろしいだけなんだけど。

そういえば、ここ最近本を読んでいてちらほらと見かけるようになったものに、「一文一段落」という、過ぎたるは及ばざるが如し、段落の意味をほぼ無効化した文章がある。

以前そのスタイルで書かれた「文章読本」を見つけた。「この人、段落の意味も知らんと文章読本を書いたのか。編集者も出版社もぬるくなったんだなあ。記念に買っとこ」と、思わず購入してしまった。内容も、文章を書くにあたっての留意すべき事柄がズラーーーッと並べてあって、いい文章を書くには何が大切なのかが実にわかりにくい。「これも大切、あれも大切」と大切だらけで、結局のところ、筆者の思いが読者に届かない悪文のいい例の実に役に立たない代物であった。ある意味稀有な文章読本。

それはさておき、今日の愚痴も、さっき言ったように、ネットの初期設定が一般書籍ぐらいにもう少し行間を広くしてあれば丸く収まることなんだけど、 そういう慣習にIT業界が気を遣うとはとても思えない。行間を「無駄な空白」ぐらいにしか思ってないんだろう。ここ何年かパソコンをいじってきて、そういうことをこの業界に期待するのはあまり意味のないことだとわかってきた。

なんか上手いことをすれば、このブログでも行間をもう少し空けることができるんだろうけど、ぼくにはどこをどうしたらいいのかよくわからん。よくわかる気もしない。そんなことにおつき合いする気はない。ぼくも適当に現状に合わせて、短めの一段落と一行空けの段落替えとを励行するぐらいでよろしいかと思う(励行であって「実行」じゃないの)。

「デジタルデバイド」という言葉を最近はあまり聞かなくなった。書籍では当たり前の「適切な行間」で書かれていればたやすく読める一段落が長い文章でも、ネットになると実に読みにくい。そういった古いタイプの、というより標準の文章が読みにくいというのは、これもある意味「デジタルデバイド」だろうと思う。こういう読みにくさが嫌で、しかも、どこかをどうかして適切な行間にできない人たちは、多分こちらの世界にあまり関与したくないはずだ。段落の長い過去の文章を改めてアップしても、行間ツメツメネットスタイルでは読みにくくてしかたがない。

歴史をないがしろにする新しさは、はかなくてもろい。ネットは新しいがゆえに可能性が広く見えるけど、どうなんでしょう、ネットははかなくてもろいんでしょうか、歴史を大切にしていくんでしょうか。

話がにわかにでかくなっちゃったね。

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2009年1月15日 (木)

働き者の人たち

Top_blueぼくは正月に出歩くことがあんまりないんだけど、今年は三日に名駅に寄った時デパートに行った。そんな時期にデパートへ行ったのは初めてだったんだけど、あまりの人出にびっくりした。そういえば、二日にも風邪で寝込んでいた母の食事を買いにショッピングセンターに行ったんだった。その時も、年末よりむしろ人出が多くてびっくらこいた。

だいぶと前から正月から開いている店が増えたと思っていたけど、こんなに客が来ていたのか。なんか今年は不況のあおりとかで、例年に比べて百貨店は売り上げが一割ぐらい落ち込んだそうだけど、それにしてもたくさんいたなあ。

一昔前までは、正月に開いているのは、正月ならではの縁起物関係の店やスキマ産業的にやっているところぐらいなもので、どこも休みと相場が決まっていた。正月に備えて年末の買い物はいつもより多めに買いこむために、店の「年末セール」も年末セールとしての意味があったんだけど、正月から開いているようになってからの年末セールは「売らんかな」のための売り言葉でしかなくなった。

店で働いている人にも「正月」はあるわけで、それを潰させてまで金儲けをしようというのはいかにも伝統の破壊だろう。そういった店で働く人たちの正月は、朝お雑煮を食べること以外普通の日と変わらない。

大店法の規制がはずれたついでにいろんなタガが緩んで以来そういう時期にも営業しやすくなったのは、資本主義による伝統的生活の破壊行為ということだ、ありていに言ってしまえば。外国ではどういう風なのか知らないけど、日本ではこうした時に「伝統」による抵抗力はほとんど機能しない。左翼民族主義者としてぼくは情けなく思う。

確かにこんな国には日の丸がよく似合う。「愛国心」も強制しなきゃ生まれるわけない。ある意味首尾一貫。

とか言いつつ、いっとき書いていた年賀状をやめてしまったぼくが言うのもナニですかな。ぼく自身の「あるべき年末年始の姿」といっても、実際は十歳ぐらいまでに作り上げられもののような気がする。年末におばあちゃんの家に親戚が集まって餅つきをしたりとかいった「正しい年末」も、中学生の時におばあちゃんが死んだ頃までのことだ。街なかを通っておばあちゃんちに行く時、正月休みのデパートを横目で見ながら、母が「松坂屋は他のデパートより正月休みが長い。それが松坂屋が一番ということの証し」なんて言っていたのもそんな頃のこと。そう考えると、「伝統」の意識形成なんてのは子どもの頃の十年ぐらいで出来上がってしまうということなんだろうかね。

それはそれとして、中小は大きいところに引っぱられざるを得ないわけで、住宅地にあるような店は措くとしても、都心部では小さい店も開いているところがぐっと増えた。一月の売り上げの内、正月休みの時期の売り上げがそんなに言うほどのものでないのだったら、働く人たちからの文句でやめる方向に話も進めやすいだろうけど、あれだけ人出があればそれなりに売り上げがあるだろうから、経営側としてはもうやめるにやめられないだろう。

大手の商い人たちはそうと知ってか知らずか、禁じ手に手を出してしまったんだなと思う。麻薬中毒患者みたいなものだ。

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