苦からの解放へ
かつて、普段の暮らしで使われていた井戸やかまどは、時代とともにほぼ過去の遺物となった。それに替わって、水道やガス、電気が普及した。いわゆる「ライフライン」というやつである。
しかし、いったん災害が起きると「ライフライン」は一気に破綻する。災害復旧はけが人の手当てとともに、「ライフライン」の復旧がまず急がれることになる。この「ライフライン」も、普段から井戸や薪、炭を使った生活だったなら、たいしたダメージを受けることも少ない。この点に関しては、今の「ライフライン」は非常にもろいものだ。普段の暮らしなら水道やガスのほうが、井戸やかまどよりも圧倒的に便利だが、いったん急があるとまったく使えないものになる。こうした「ライフライン」のありようは、非日常を忘れた日常のもろさを見事に表現している。
「規制緩和」だとかで、あちこちで大型小売店が作られている。スーパーどころではない、メガ、ギガなストアだらけである。そこには確かになんでも揃っている。しかし、車がなくては、そこになかなかたどり着くことができない。
大型小売店の建設は、爆弾が落とされたかのように地元の商店街や小売店を直撃し、その周囲の生活は一変する。車を使える家庭以外はどこにも買い物へいけなくなる。車を使えない老人家庭は生活が破綻する。たとえたどり着いても店内が広すぎて、年寄りの日々のちょっとした買い物にはまったく不向きだ。大型小売店はまさに、「老い」を忘れ、年寄りを隅に追いやっている現代社会のありようそのものである。
決して豊かとはいえない収入の人たちが買い物を安く上げようと行くのは、地元の商店ではなく、労働賃金の安い周辺国から資本が買い叩いてきた商品を並べている百円ショップである。貧乏人の財布から出ていった金は資本に吸い取られ、地元でなかなか金が回らない。
生には老、病、死が含まれている。仏教では生も含めて、生老病死を「四苦」ととらえるが、今の社会のありようは、生の「つらくない部分だけ」を都合よく取り出して、そこを中心にして成り立っている。老病死を隅に追いやるだけでなく、生のつらい部分さえも都合よく忘れ去って生きようとしている。生活の中から死が遠ざかったと言われるようになって久しいけれども、実際は、死ばかりではなく、老も病も「つらい生」も遠ざけようと躍起だ。
弱者を切り捨ててようやく成り立つ社会が、はたして幸せなのか。無駄を切り捨てて効率的に生きるだけの社会に、幸せは成り立つのか。いつ病むかわからず、いずれ老い、いずれ死ぬ存在だということを忘れた生きかたのその先に、はたして幸せが待っているとでもいうんだろうか。
人は有限な存在だということを忘れて、どうやって無限の生命とつながることができるというんだろうか。死という決定的な非合理を含んだ生を生きる人間にとって、部分的な合理性しか通用しない社会が、ほんとうの意味で合理的な社会といえるだろうか。
目指すべきものは非日常を内に含んだ日常、非合理を内に含んだ合理、有限を内に含んだ無限だろう。「障害」をその人の個性として生きられるような社会だろう。
ところが、現下に広がりつつある社会は、「負けを内に含む勝ち」という上からの恩恵的社会(これが再チャレンジ可能ということだろう)ですらない、素っ裸の競争社会だ。いつになったら、弱者を弱者のままに放置し続ける社会から決別できるのか。
生老病死を疎外したいびつな生。この愚かさを自覚する機会なぞいくらでもある社会なのに、その愚かさを自覚することなく邁進する社会。見事に疎外意識が疎外されっぱなしの社会。
自らの愚かさの自覚をうながし、愚者をそのままの姿で救う浄土教。自分を疎外する社会を自らの手で作り出す社会のありようを解剖し、疎外克服を「その社会の中」から目指すマルクス主義。浄土教徒として言うならば、愚者の自覚の深浅にかかわらず愚者をすくいとる阿弥陀の本願を信じて云々、と言うべきだろう。マルクス主義者として言うならば、階級意識のあるなしにかかわらず疎外された人間をすくいとるような社会変革を目指して云々、と言うべきだろう。
宗教者は、哲学、ましてやマルクス主義なんぞは世界観がなくていただけない、と言う。しかしそんな人は、もう少しマルクス主義を勉強して誤解を解いたほうがいい。マルクス主義は「哲学」といえども、「必然的に実践を要求する哲学」と自己規定していることの意味を考えるべきだ。マルクス主義者から見れば、宗教なんて時代に置いていかれた過去の遺物扱いだろう。しかしそれは、宗教と社会科学との間に、まったく無駄としか言いようのない壁を勝手に作っているだけのことであって、それは知性の退行でしかないと了解すべきだ。人民を指導する役割が前衛党の特権だと考えるのは思い上がりもはなはだしい。
経済とは「経世済民」、すなわち世を経て民を救う。人間疎外を告発した若きマルクスが経済学へと向かったのは、産業社会において必然だった。
宗教と社会科学は苦を解放するための両輪だ。社会科学を無視ないし軽視する宗教に現代的意味はない。
また、科学が「人間の幸福」を目的に持たないなら、人は科学に裏切られ続けるだろう。
万民の苦からの解放を求めるぼくにとって、浄土教とマルクス主義と、その両者の間にはほとんど距離がない。
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ロック好きなら「ボブ・ディランしか聴いてない時期」というのをきっと一度は通るものだ。いわゆる「うまい歌」からは遠く離れた歌い方なのに、なんだこの磁力は! 曲自体も、他人がカバーするのを聴くとめちゃめちゃいい曲だということを改めて思い知り、ほとほと感心する。このアルバムだけで三週間は過ごせる。フォークの神様をロックが包摂していく瞬間をこのアルバムで感じとろう。






























