つき合って一緒に沈むのはいやだけど
前記事の小説『嫌ブス権』はどうでしたか? 小説などという不慣れな手法をとったので、まあいろいろと「不適切」な表現で不快な気分を持った方もおられましょう。しかしながら、「不適切」と言うならよっぽど今の世の中のほうが不適切だろうと、ぼくは思います。もし当該小説を読んで不快感を持たれた方がおられましたら、もっと大きな不適切に対して更なる不快感を持ってくださることを期待します。
かつて成人男子の九十五パーセントが喫煙者だったこともある国で、たばこがここまで世間から嫌われ者になるとは、その頃に生れ落ち、日常的に煙に「被曝」しながらも特段不都合なく育ってきた者としては、ちょっと異様なものを感じる。キセルがトレードマークであった鬼平犯科帳の長谷川平蔵でさえ、時折作られる新作ドラマではキセルのシーンがまったくなくなってしまった。この春から、JR東海の在来線では喫煙所がなくなってしまい、京都でもタクシーがほぼ全面禁煙になった。
うちの近所の大学では構内完全禁煙とノボリが立っている。これからは大学でもたばこを吸うと停学にでもなるのか? まあ、最近は大学生も「学生」と呼ばれず「生徒」と言われるぐらいだから、しゃあなしか。高校生みたいに停学にでもなんでもなっておくれ。それにしても、学生自治とかそんな言葉はすでに死語なんだろうなあ。こうしたことを決めた大学職員も、自身がそんなことを経験していない世代が中心になりつつあるだろうから、「学生自治」の「が」の字も思い浮かばなかったろうことは同世代の者として容易に想像がつく。そしておそらく、こうした決定過程が教育機関としての大学の役割を放棄している姿なのだということを、彼らはわかっていない。
ぼくが思うに、たばこがここまで社会的な排除の対象となるのは、いじめの言いがかりとしてよく使われる「くさい」をたばこには堂々と言えること、健康至上主義、健康病という現代先進国のヒマ人のヒステリックな心性、それと、病への認識の仕方、そんなあれこれが絡み合いながら、この問題の下に横たわっているのだと思う。
十九世紀の科学技術の発展は、コレラやペスト等の細菌が原因となる病を次々と克服、制圧した。二十世紀に入ってからも天然痘を完全制圧し、結核を不治の病から治る病にしてしまった。近代医学の発展は、病を呪術の対象から科学の対象へと人々の認識を変えてしまう力を持っていた。まさに科学の勝利であり、人類の進歩である。
こうした病気は、病気に対応する原因が○○菌等と(今でこそ)比較的単純だが、こうした病気が克服されて以降死因として上位になってきた疾患は、その原因が多岐にわたる。がんや内臓疾患の原因は決して単純なものではない。生活習慣病、成人病などといわれるものはおしなべてそうであろう。現代において、死因につながる病気の予防は「○○をすればよい」などといったことですむことはない。
生活習慣病、成人病の多くは、そういった病気になれるほどに長生きできるようになったからではないか、つまり、何らかが原因というよりも、時間とともに進行していく「老化」が病気を発症させていると言ったほうが正確なのではないかと、ぼくは思っているのだが(いろんな病気を引き起こすとされる肥満は、むろん老化ではなく、食の先進国への偏在化による栄養過剰がその原因だろうが)、十九世紀型の病気の認識の仕方に慣れ親しんできた近代人は、これらの病気に対しても単一の原因を「期待」する。そして、その対応策を単純化する。「心臓病予防にはポリフェノールがいい。それを有効に体に取り入れるにはワインがいい。お茶がいい」「がんには○○が効く」「納豆でダイエット」「バナナでダイエット」「メタボのあなたに必要なのは○○!」・・・・。話がウソであろうがマコトであろうが、こうしたブームが繰り返されるのは、現代的にアレンジしなおされた十九世紀型の認識を多くの人がいまだに続けていることの証左だろう。しかしながら健康で長生きするのもしないのも不確定要因が多すぎて、多くの人にとって病気の原因と結果が一対一の対応関係を結ぶことは少ないのである。「科学の力」によって長生きを手に入れた現代先進国の人が雑多な情報にふりまわされている姿は、健康にしか生きがいが見つけられなくなったヒマ人の贅沢にして空疎なヒマつぶしに見えなくもない。
複雑な要因を持っているはずの病気について、病気から原因を見るのではなく、原因から病気を眺めたとき、日常生活に溶け込んだたばこという嗜好品ほど都合がいいものはなかったのだろう、現代的十九世紀型認識によって、様々な病気の原因のジョーカーとしてたばこはお白州に引きずり出された。
「くさい」に過剰に反応するのもまた、現代における病的な状況と言えるだろう。たき火はおろか、マンションの隣室の蚊取り線香のにおいにまで反応する住民。いまやどこにいっても消臭モノは人気商品である。いじめの定番に「おまえ、くさい」があるのは、嗅覚が原初的な感覚だということもあるだろうが、他者との接触回避の心理の表われとしての過剰な「ニオイ忌避」とも無縁ではあるまい。しかして、受動喫煙の害の「科学的根拠」を見てみるに、果たしてこれが科学かと思われるようなあやふやなものばかりだが、こうした中でたばこが槍玉にあげられれば、そこに科学的根拠があろうがなかろうが、そんなことはもうどちらでもよい。なんせ「くさい」という直接的に「私」に訴える不快感があるのだから、たばこ排除は不可避である。それはあたかも、「だってあいつ、くさいし」と、「いじめられるほうも(が)悪い」というイジメの本音を、たばこ排除の場面で代償させているかのごとくだ。
排除の対象が、 たばこと同様に存在自体が人に不快感をもよおす「ブス」や「○○」でないのは、偶然にしか過ぎない。「○○」には、あなたが不快を感じるものを代入せられたし。そこに少しでも嫌われる要素があるならば、酔狂な「科学者」がいずれそれに「科学的根拠」を与えてくれるに違いない。
たばこの害はWHOがどうとか言っているといっても、地球温暖化の議論がWHOにおいて科学的議論というより政治化してしまっているという記事、論評をあちこちで目にするように、たばこも同様、WHOの報告が絶対化されるものでは到底ない。
と、たばこの議論もここまでなら、ひとつの文化論として、ぼくもたばこ好きの側から議論に乗ろう。たばこを好き嫌いのレベルで語ること自体の是非はない。嗜好品対毒ガス・危険物という、絶対にかみ合わない不毛な議論が繰り広げられるのも、議論の整理がついていない以上、致し方ない面もあるとして認めよう。
だが、こと昨今におけるたばこ排除の論理は、似非科学だけではなく法律、条例まで持ち出してきた。たばこへの法による決裁は、私的領域への政治介入以外の何ものでもない。たばこ嫌いの人にとっても、私的領域への政治介入は許されないものだろう。ましてや、法の裏付けとなるべき科学的根拠はあいまいなものである。
嫌煙権は文字通り法的な権利となり、ここにいたれば、たばこの好き嫌い(もしくはたばこの科学的正邪)の議論はすでに質的に変化をしてしまった。それを意識せずして、今たばこの問題を語ることは、あまりにも権力への緊張感がなさすぎの、呆けた議論でしかない。現代政治はそんな素朴な生きかた、ものの見かた、考えかたを見事にすくいあげて、支配の論理へと組み替えていく。「マナーからルールへ」という、一見もっともな標語に潜むあぶなさは、たばこどころではない、権力の危険なにおいがプンプンだ。
路上喫煙禁止区域で、同じたばこを吸わないといっても、確かに今ここで吸うのは迷惑だからとたばこを遠慮するなら自律的人間ともいえようが、ここは禁止されているからとたばこを遠慮するならば、それは権力がまさに欲するところの被統治者の生きかたそのもの、人畜無害の人である。
たばこが好きだろうが嫌いだろうが、ブスが好きだろうが嫌いだろうが、それは恣意的な事柄であって、基本的に私の領域に属する。そこに文化論としての正しい、間違いの議論は成立しえても、法によって正邪を決められることではないし、決めてはならないことだ。近代政治において、私的領域への政治介入をなしくずしにしながら事を進めるのは、思想的に近代以前に戻ることであり、現実社会にファシズムを招来することとなる。
私的領域の政治化はファシズムへの第一歩、もしくはそれそのものであり、そのもっとも先鋭化した姿は戦時に立ち表れる。武器を持った者は、「人を殺したくない」という私的領域の最後の一線までもが権力によって戦争の論理に塗り替えられ、人を殺す。爆弾の下では人に私的領域など存在する余地もなく、政治によって虐殺されるのみだ。
治安維持法が成立する前、「不埒な者」を拘禁するのに猛威をふるっていたのは、浮浪罪という軽犯罪であったということもまた心にとどめておいたほうがいい。
なにもたばこに限った話ではないが、権力との緊張関係があまりにも希薄なこの社会に生きていると、ぼくの耳に聞こえる戦争への足音は空耳ではないのかも、という気がしてならない。
小説本文よりも長い解題となってしまいました。
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ロック好きなら「ボブ・ディランしか聴いてない時期」というのをきっと一度は通るものだ。いわゆる「うまい歌」からは遠く離れた歌い方なのに、なんだこの磁力は! 曲自体も、他人がカバーするのを聴くとめちゃめちゃいい曲だということを改めて思い知り、ほとほと感心する。このアルバムだけで三週間は過ごせる。フォークの神様をロックが包摂していく瞬間をこのアルバムで感じとろう。






























