« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月の記事

2009年5月25日 (月)

ドーン!バーン!キキキーッ!を120%

Top_blue_2最近はテレビがつまらない。ゴールデンの時間帯はひどいもんである。ニュースも、特に民放ではニュースなんだかワイドショーなんだかわからんし、バラエティやドラマも、いやはや、もうなんだか切ない気分になってくる。そのために、昼や夕方にドラマの再放送を録画しといて、後で見直すような具合である。視聴者としてテレビ局にすっかり年寄り扱いされてしまう年齢になってきたということなんであろう。

年齢と言えば、年のせいなのか人の名前を覚えなくなった。以前からそうだと言えばそうだけども、その程度がずいぶんとひどくなってきた。以前はそれでもなんとか思い出そうとしたし、忘れたら忘れたで悪い気がしたもんだけど、そういうこともだんだんなくなってきた。今では平気の平左である。

以前からそうだと言えば、ぼくは昔からドラマの筋立てがなかなか頭に入らない。話の道筋をたどるのが苦手である。よって映画は、話の筋道無用なB級物が大好きである。ドーン、バーン、キキキイーッ! で、その手のものは海外物のほうがなにかと派手で楽しい。テレビ東京系っていうんですか、独立UHF系っていうんですか、あのチャンネルは、再放送ドラマもB級映画もよく放映してくれて、ぼくには大変都合がよろしい。

以前飲んでいて、B級映画が好きという話になった。そしたら相手がやけにその手の映画に詳しくて、「それはすでにC級なのでは・・・」と話題が拡大。ぼくはついていけず、そこではっきりしたのは、海外物でいうなら吹き替え版がある程度のB級物がぼくは好き、ということであった。

感動物の映画なんて言われても、映画で感動することがないわけじゃないけど、それよりも現実のほうがよっぽど面白いではないか。映画で感動するのも、見る者にそれに見合った人生の裏づけがあればこそ。人は二時間ドラマでさえ、泣くときゃ泣くんである。吉本新喜劇でも目が潤むときは潤むんである。話は所詮作りごと。なんなら小説や舞台という形式でもあり。けど、ドーン、バーン、キキキーッ、これこそは映画独自の表現分野じゃなかろうかと思う今日この頃。

それはさておき、海外物と言えば、テレビの深夜放送では海外(といってもアメリカがほとんどだけど)のドラマや映画をよくやっている。で、B級物ばかりでなく、面白そうなのはビデオに録ったりする。

それを後日見ていると、名前がナントカシャーンやらナンチャラリーンなどと横文字ばかりで、まずそれが頭に入らない。そのうえ、出演者はみな外人顔なんで、よっぽど有名な役者でもない限り見分けがあまりつかない。話が推理物だったりすれば、当然のごとく話についていけなくなる。縫い物とか他ごとをしていればなおさらである。

ドンパチ物も、敵味方の関係にひとひねり入っていると、ぼくの中では唐突かつ無意味な爆発や暴走、闘争のシーンばかりになって、あんまり楽しめない。そういう話が最近増えてきた、というより、さらなる読解力低下でドンパチ物にさえ最近ついていけなくなってきた、という感じ。

以前はそういう風になっても、見ているような見てないような感じで見続けていたけれど、今では話が半ばに進んだあたりで、「もうだめだ・・・」と冒頭に戻す。うちは録画機器がハードディスクレコーダーなので、その辺は一発操作である。ボタンを押してピャッと頭出し。一時間物の三十分目だろうが、二時間物の一時間目だろうが、これ以上出演者が混乱したまま見ていてもつまらないから、いさぎよく頭から見直す。さすれば、さすがのぼくも話についていける。再び話半ばにさしかかったとき、ぼくは安心して推理を深め、ドキドキ感も高まり、ようやく話に入っていくことができるのである。

それを別の日に同居人が見るときに、また一緒に見る。そこでぼくはその話を心の底から120%楽しむことができるのである。そうかあ、こういう話だったのかあ。

 

まったくもって今日は年寄りの詮方ない愚痴ではないか。

|

2009年5月15日 (金)

高級眼鏡拭き

Top_blue最近の眼鏡拭きはすぐれている。取れにくい皮脂汚れもさっとひと拭きである。布についた汚れも石けんで洗えば落ちるから、何度も使えて大変によろしい。眼鏡を使う人は買った時だけじゃなく、調整の時なんかにもサービスでもらったりして、何枚か持っているんじゃないんかなあ。

眼鏡拭きばかりでなく、楽器拭きもその手の高級なやつが増えてきた。こっちは眼鏡拭きに比べてかなりでかい。新品のうちは、ギターの錆びかけた弦をキュッキュッとやるのはもったいなくて(どうかすると弦で布が擦り切れる)、ギター用普段使い雑巾一歩手前ボロ切れで汚れを取る。貧乏性。

他にも洗車用とか掃除用とか、いろんな分野で高級ふきふきは活躍の場を広げていることだろうから、眼鏡や楽器に縁のない人でもどっかかんかで使っているんじゃないでしょうか。

ぼくは職業柄通夜、葬儀に出席することが多いけれども、そういうとこに行くともらう「粗供養」と称するやつ。弔事の簡易引き出物とでも言いましょうか。もらうほうが粗供養と言うのも失礼ですし、回りくどい言いかたになって恐縮ですが、ああいうのはハンカチやらお茶なんかが多いけれど、最近は眼鏡拭きをもらうことがたまにある。そんなわけでぼくは普段使うのに必要な以上に眼鏡拭きを持っている。

眼鏡には必要じゃないからといって楽器用にまわすと、やっぱりちっちゃくてちょっと使いにくい。ふーむふーむ、どうしたもんかと思案六法。

まだ肌も若かりし二十代の頃、化粧品業界に勤める友だちに顔肌診断をしてもらったことがある。

「残念です、最悪系の乾燥肌の油肌です」

ほうほう。確かに。マクドのナプキンで顔のあぶらとりをすると、一枚丸ごとが油紙になる。浅香あき恵なみの油田状態である。お風呂でも一度洗いではなんかすっきりしないし、風呂上りに古い角質層が白く残る。かといって徹底的に二度洗いすると風呂上りがパッサパサ。女の人ならここでパシャパシャとなんやお化粧品で手入れをするようであるが、日本男児たるものそんなメンドーなことしたくないやい。

そこで、皮脂汚れもさっとひと拭きをキーワードにハタと思いついて、お風呂で洗顔のときに眼鏡拭きを使ってみた。石けんをつけてやさしく顔面を洗ってみると、あらまあいいんじゃありませんの、奥様ぁ。拭き心地にいい具合の粘りがあって、いい感じに角質層も取れて、そのうえ洗い上がりもしっとりよー。それに奥さん、あたくし剃髪→丸坊主→剃髪→丸坊主のくり返しですでしょ? それで頭もついでにゴシゴシやってみましたのよ。そしたらあ、頭皮もばっちりでしたわあ。毛は濃くなりませんけどねえ、おほほほほっ。

とまあ、非常に具合がよろしい。以降、我が家のお風呂にはゴシゴシタオルとともに眼鏡拭きが常備となったわけである。顔面はきつくこするとさすがに後でヒリヒリしてくるから、そっとやらんといけませんが、まあみなさんも余った眼鏡拭きがあったら一度やってみてはいかがでしょうか。

 

って、もしかしたらこういうの洗顔用に売っていたりするんであろうか。まあ、あっても全然おかしくない。鹿革だかセーム革のを深夜のテレビショッピングで見たことあるような気もしてきた。まあ、よいよい。

|

2009年5月 5日 (火)

朝の散歩

Top_blue自分が住んでいる家というのは日常の中に埋没してしまって、「風景としての自分の家」という感覚は失われてしまう。

あそこにコンビニがあって、そこに風呂屋があって、ここが誰それさんの家で、ここが隣の家で・・・、と、家のまわりの風景は、ふだんはっきり意識することがなくとも、頭の中になんとなくあるものだ。けど家の前まで来ると、そこからはもう風景ではない。引っ越してきた当初には自分の家にも感じていた「風景としてのこの家、ここにあるこの家」というものがいつの間にかなくなり、そこにあるのは、風景と切り離された自分の家。

ぼくの実家はお寺だから普通の家にくらべて風景として強い印象を残しているはずだ。よその寺を見ればぼく自身がそう見えているんだから、そういうものだと思う。それでも、そこで生まれ育ったぼくにはふだんそうした自覚がまったくない。

最近はあまりしなくなったが、十年くらい前までは、徹夜をした朝方に時々散歩にいった。そういうときはたいがい昼夜逆転中なんで、飲んだあとの朝帰りとは違って目はパッチリである。人も車も少なくて、ふだんと違う気分でのんびりと散歩ができる。

実家にいた頃のある日、そんな散歩に出かけた。近所の川の堤防までぷ~らぷらと歩いていって、朝の風をひとしきり浴びて、それから帰途についた。いつものように神社の前を通り、そこの角を曲がって、寺の前に帰り着いた時、「あらら、なにこれ?」。ぼくは初めて、自分の家が寺だということを「発見」した。「ここにお寺がある。自分が生まれ育ってよく知っていると思っていたこの町内のここには、そうかあ、お寺があったんだあ!」と、まるでよその寺を見るような目で自分の寺を見てしまった。

似たようなことは学生時代にもあった。

大学入学とともに京都でひとり暮らしを始めたとき、あこがれの京都に来たというおのぼりさん気分もあって、「いずれ自転車で嵐山まで渡月橋を見にいってやる!」と考えていた。とある秋の日、夜中の三時だったか四時だったか。まだ暗い中、車の少ない大通りを十二段変速機つきの中古自転車でぶっ飛ばして嵐山にむかった。念願かなって夜明けまえの渡月橋の姿を見ながら、「うんうん、満足満足」とひとしきり京都気分を満喫した。

そして下宿に戻ってきたのが朝の六時ごろ。ガチャガチャと鍵をあけて部屋にはいった瞬間、「あれっ、あれれ? ああ、おれは京都でひとり暮らしをしている! うーん、なんて狭い部屋なんだ・・・」と、狭い六畳ワンルームにひとりで暮らしていることに「初めて気づいた」のである。

そんな経験はこの二回しかないけど、これはきっと、ふだんとは違う朝方の風景のつづきのまま自分の家を見ることで、自分の家への視線に他者の視点が入ってきた、ということなんだろう。その時は、まるで安倍公房かカフカの小説の主人公になったような気がしたものだ。

そういえば、押入れの中から部屋を見るといつもの部屋が他人の部屋のように見えると聞いたことがあるなあ。今度押入れを整理して自分の部屋を覗き見してみようっと。

|

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »