マスクの人たち
ゴールデンウイークの頃から始まった豚インフルエンザ騒ぎは一体なんだったのか。またしても政府が危機をあおりマスコミがそれに乗っかるという、いつもの風景が繰り返された。
様々な行事が中止・延期となり、日本で第一号の感染者が出たとされる神戸では(その人が本当に一人目の感染者か怪しいらしいが)、商店街や地下街の人通りが絶えてしまい、店が自主的に休業してしまうほど。病気の恐ろしさよりもずっと怖いのは、行政やマスコミという権力の強大さであることを実感させられた。
舛添厚労大臣がここぞとばかりに嬉し恥ずかし必死な形相で感染予防を訴えた後に、麻生首相が政府広報で「冷静な対応をお願いします」と、総選挙が近くなければきっとやらなかったであろうコマーシャルをやる。ニュースやワイドショーは二週間も経った頃に「少し過熱報道にすぎたかも」などと殊勝なことを言い始めたが、何をいまさら、見事なまでのマッチポンプである。
彼らのやっていることは「危機管理」などではなく、健康ファシズムを背景にした、子どもじみた「危機管理ごっこ」でしかない。
今回なんとも不気味だったのは、マスク姿が街中にあふれかえったこと。マスクをつければ人相が隠れ、表情がよくわからなくなる。白色ばっかりで全然おしゃれじゃないし。全国的に見ればそれほどでもなかったようだけど、関西では一時当たり前の姿となった。「感染者」が偶然関西に多かったからそうだっただけで、条件さえ合えばどの地方でもマスク姿があふれかえっただろうことは想像に難くない。
豚インフルエンザが騒がれ出してすぐにも、マスクの効果は非常に限定的と言われたにもかかわらず、同時に最新の不織布のマスクはいかに飛沫が飛ばないか、テレビで黒を背景にくしゃみする姿を映し出し、営業効果はばっちり。霊験あらたかな御守りとしてどこも売り切れになり、おかしな宗教の信者よろしくマスク姿がゾロゾロ、ワサワサと湧いて出てきた。
全体主義というのは、「全体」がついてこなければ成立しない。今次、危機管理ごっこに煽られて行事を取り止め、マスクを買い求め、マスクをつけた人たちというのは、その意味で残念ながら権力の思惑通り全体主義に乗っかった人たちである。横並び意識、同調圧力が強い日本では、自身が全体主義に乗っかっている自覚を持ちにくいのは確かだけれども、しかしまた、こうした人たちが今回全体主義を下支えしたのも確かなこと。
同居人もまた、通勤時にマスクをつけるよう職場から言われ、それを実行し、それでぼくから「ふーん、そうか、きみもまた全体主義を支持したのかね。危機管理ごっことつき合えるんだぁ。そうかね、そうかね」と、ねちねち糾弾を受けるハメとなり、ぼくはぼくで気分がドンヨリ滅入ってしまった。
第一号の感染者となった高校生の校長は何をとち狂ったのか、記者会見で涙を目に浮かべていた。会見直前に生徒から涙ながら「ご迷惑おかけしてすみません」と連絡があったからなんだそうだが、校長が一緒になって泣くなんて、おいおいおい。違うんとちゃうか? 「ああいう大人にだけはならないでおこう」と当該高校の生徒たちが学んでくれたら、せめてもの救いなんだけど。
こんな国、ほんとにやだと思う。
社会保障費が増大する中で、「消費税増税やむなし」の意見が今醸成されようとしている。が、消費税はどうあっても貧乏人のほうが負担が大きい不公平な税制だ。いずれ消費税増税の議論が本格化した時、「マスクの人たち」は消費税の不公平さを忘れて「増税もしかたがない」と言ってしまうんだろう。
四月の北朝鮮の「飛翔体」騒ぎの時、地対空ミサイルが実戦配備され、また今、自衛隊は「盗賊鎮定」のため遠くソマリアに派兵されている。こうした既成事実が積み重なる中、現実に戦争の危機が迫ってきたら、「マスクの人たち」は再び危機管理ごっこに乗せられ、日本に憲法九条があることもすっかり忘れて「武力行使はしかたがない」と言ってしまうんだろう。
全体主義を防ぐにはまず、危機管理ごっこをせせら笑う力を民の側が持つことだ。
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ロック好きなら「ボブ・ディランしか聴いてない時期」というのをきっと一度は通るものだ。いわゆる「うまい歌」からは遠く離れた歌い方なのに、なんだこの磁力は! 曲自体も、他人がカバーするのを聴くとめちゃめちゃいい曲だということを改めて思い知り、ほとほと感心する。このアルバムだけで三週間は過ごせる。フォークの神様をロックが包摂していく瞬間をこのアルバムで感じとろう。






























