カテゴリー「世の中のこと」の77件の記事

2009年12月15日 (火)

引きこもりマンション

Top_blueざっと三十年ほど前、ぼくがお経を手伝い始めた頃、「今日は留守にしとるけど、鍵はかっとらんで勝手に上がってお経上げてって。お布施も忘れんように持ってってよ」なんていう檀家さんはまだ何軒もあった。時代が進み、そういう家がなくなっていくのと入れ替わるように、ちょうどその軒数分ぐらい、オートロック付きのマンションが増えた。

月参りで行く先がオートロックのマンションというのは、一軒家やオートロックでない集合住宅などと違って、少し気軽さに欠ける。ロビー入り口の前で選別されている気分になって、はっきり言ってあまり気持ちいいものではない。「勝手に上がってって」の気楽さと比べれば、その気分は雲泥の差だ。

マンションは、時として近隣の住民と対立的になることがある。対立的とまで言わなくても、近隣の者同士としてのつながりは持ちにくい。地元町内会にマンション丸ごと参加していなくて、誰が住んでいるのかまるでわからないなんてことも特段珍しいことではない。大地震被災直後、自治会が仕切って食料や水などの緊急援助物資を頼む際、マンション住民の人数がわからず大層不具合があったなんて話はたびたび聞かれる。

マンションはただでさえ巨大で異形な建物で、近隣の住民にとってよそよそしいものになりがちだ。そこへさらに、ロビーに、「関係者以外立ち入り禁止。チラシ、ビラの配布禁止」などと看板があれば、近隣住民がマンションの住民に対して隣近所の感覚を持てというほうが難しい話である。

十一月末、東京都葛飾区で共産党が議会報告のビラをマンション(オートロックなし・管理人常駐せず)に配ったことが、住民の平穏な生活を壊す違法行為(住居侵入罪)だとして、最高裁判所で五万円の罰金刑の有罪判決が確定した。

逮捕された上に(逮捕自体が不当だろうに)、二十日以上も拘禁され続け、起訴までされて、一審無罪、二審逆転有罪、そしてついに最高裁で五万円の罰金刑が確定。いくつも歯止めをかける場面があったのに、ほぼスルーしてしまった。

そんなに悪いことなんでしょうか、マンションのビラ配り。

共産党のアカいビラだったからいけなかったんでしょうか、やっぱり。アカよりも薄い色のピンクチラシのほうがよっぽど平穏な生活を破壊されると思うんだけど(万が一にも誘惑に乗ってしまったらどうするのだっ!)、ここまでえげつない話を聞いたことがない。ピザ屋や宅配のチラシでこんなことってあり得るの?

確かにチラシ、ビラの類が郵便受けからあふれるほどに入れられるのを、困ったものだと思う人はいるだろう。だけどぼくは思うのである。アカだろうがピンクだろうが、チラシやビラが郵便受けに一枚も入らないような、外と断絶された生活空間を保障する社会が、そもそもからしてそんなに住みよい社会なんだろうか、と。そういう世の中って一見平穏なだけで、その実はめちゃめちゃ息苦しいんじゃないの?

縁側というのは、家の中と外の縁を結ぶ場所だから「縁側」と呼ぶ。古来日本では、内とも外ともいえないようなつながりの場が家に組み込まれていた。建築物はひとつの思想表現だと言われるが、そんな場は日本人にとって今や、鍵のかかってない留守宅でのお経と同じで、思い出と郷愁の中にだけ存在すればいいんだろう。

ぎりぎり最後の縁側たる郵便受けに、ビラの一枚も許さないマンション。マンションは要はあれだね、マンションの外ではごく普通でしかないこととも無縁に、地域から引きこもっていたいということなんだね。

今回の判決は典型的なアカ差別、表現の自由の侵害の不当判決であると同時に、「近隣住民にとって、マンションは隣近所にあらず」という、決して誉められたものではない感覚を、司法がさらに後押ししたということでもある。

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2009年12月 5日 (土)

禁煙スパイラル

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最高学府周辺の風景。

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ちょうどスクーターが出てくる辺りの壁には、こんな看板が。

 

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往来に向かって。
恥ずかしげもなく・・・。

 

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がんばれ学生。
アホな大人は、君のすぐ目の前にいる。

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2009年11月15日 (日)

隠微かつ大っぴらに

Top_blue タバコを一箱六百円だか八百円に増税すると言われている。現在の喫煙率は男性四割、女性一割だそうで、喫煙者は少数派だとはいえ、タバコの増税は今なお大衆増税であることに変わりない。

あるニュースのコーナーで、小学生をインタビュアーにして、街なかの大人たちに「なんでタバコだけ増税なんですか?」と、すっとぼけた質問をさせていた。こういうニュース番組での「街の声」の類は、都合のいい「声」が取れるまで続ける、限りなくヤラセに近いものだから、その時放送された凡庸な回答内容に目くじらを立てはしないけど、正しい大人ならばやはりここは、「あなたたちの学校でもイジメがあるでしょ? あれと同じこと。イジメはいけないと言いながら、大人もやっているんだよ」と、正直に答えてやるべきだろう。

この大増税が実施されたなら、「困った時のタバコ税」もこれで最後になるのかどうか、それは知らぬが、事の本質が「健康」を口実にした隠微かつ大っぴらなイジメであるだけに、そんなイジメの構造に社会がドッパマリにハマッていく姿を、くり返し子どもに見せつけるのはいただけない。

以前に『嫌ブス権』とその解題記事で書いたから詳しく繰り返さないが、現今のタバコの排除のあり様は、現代の病の危険性をよく表わしている。こうしたことがジンワリと、しかし堂々と進行する世の中というのは実に息苦しい。健康のため、とタバコの排除にいそしむ人たちの、そして、それに賛同する人たちの「善意」に満ちた顔は、まさに地獄への水先案内人にふさわしい顔つきをしている。

健康観や、ひいては人生観にまで権力が口出しする。それを多数の人がよしとする。もしくは否と言わない。自己決定に属するそうした判断まで権力に預けてしまうのは、ニーチェの言う「ルサンチマン」そのもの、フロムの言う「自由からの逃走」そのものだろう。自由という視点から見渡せば、現在に見える「近代」はいかにも未完成の時代だと思う。

映画『イージーライダー』でのセリフ。
「アメリカ人は自由についてたくさん語るが、自由な奴を見るのは怖いんだ」
アメリカ人に限らず、枠を与えられることなく自由に生きるということは、さても難しいのかもしれない。

 

ところで、「いくらになったらタバコをやめますか」という質問。きっぱりやめない以上、タバコをやめたとは言わないそうだから、一本でも吸えば喫煙者ということになるんだそうな、禁煙論者に言わせると。えらいデジタルな話。

ということで、アナログなぼくの答えは、高くなればもちろん量は減るにしても、「いくらになってもタバコをやめることはない」ということになる。

タバコの話になるとみなさん忘れがちになるけど、タバコってとってもおいしいんですよ。お酒と同様、その完成された微妙な味わいは、大人にしかわからないのかもしれないけど。おいしいものをやめることなんかない。ましてや、ムリからにやめさせられるもんじゃない。

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2009年10月25日 (日)

元ヤンよりも

Top_blue今ではあまりメディアに載らなくなったが、「ヤンキー先生」こと義家弘介という参議院議員がいる。手のつけられなかった少年が更生して教師になったのが世間で評判になっていたかと思うと、安部内閣の時首相に見込まれて教育再生会議の委員となり、ついには自民党の参議院議員にまでなってしまった。よりによって安部晋三に見込まれるとは、いかにも頭が悪そうな人たちの「類は友を呼ぶ」というやつか。こういうのを見ていると、ヤンキーっていうのは一見、自身を疎外する世の中に反抗しているように見えて、その実は自身が体制側(疎外する側)に立てないことへのルサンチマンなんだろうなと思う。エサをぶら下げられればワンッと吠えながら権力の犬に成り下がる。格好だけはヤンキーでなくなったかもしれないが、とてもかっこ悪い生き方。

さて、アメリカのオバマ大統領のノーベル平和賞受賞。この報を聞いて思ったのは、世の中やっぱり、ずっとまじめにやってきた人間よりも無茶苦茶やっていた(いる)人間がちょっとまともなことをしただけの方がずっと評判になるらしいということ。いくらこの春プラハで核廃絶に向けて「歴史的な」演説をしたといえども、最大の核保有国の大統領がノーベル平和賞だなんてブラックジョークに過ぎる。

イラクもアフガンも、もともとは本家ヤンキーのブッシュ前大統領が始めたこととはいえ解決の道筋がつき始めたわけではない。それどころかオバマはさらに軍隊を増派するとか言っているのである。なのに、ねえ。米軍基地問題で揺れる沖縄のことも思えば、ワールドワイドに悪のりした冗談に見えてくる。

なんだったらあれか? 北朝鮮が核開発をガンガンに進めた後に核兵器放棄の宣言だけすれば、金正日もいずれノーベル平和賞を受賞できるのか?

日本の佐藤栄作元首相のノーベル平和賞をノーベル賞の関係者も失敗だったと思っているらしいが、この賞は「思惑」が入り込みすぎて賞としての権威を自ら貶めるようなことをしばしばしているから、今回もそれに近いといえば近い。

広島と長崎がオバマのノーベル賞受賞を受けて、ここぞとばかりにオリンピックの候補地に名乗りを上げたのは、機を見て敏という意味では正解だと思う。キノコ雲の下で起きたことの実態がいまだ日本国外で充分に知られていない現状では、どういうきっかけであれ核廃絶の声に注目を集めさせることは意味のないことではない。

ただしぼくは、そもそもオリンピックは高校野球の甲子園のようにアテネで固定して開催すればいいと思っているから、この話も話半分の賛意である。

ノーべル賞とオリンピックというだけで世間でこれだけニュースになるのはいかにも権威主義の話だけども、なんにせよ、オバマ大統領が日本に来た際に、広島と長崎の原爆資料館を日長ゆっくりと見学して原爆の実態を少しでも知るための後押しの材料のひとつにでもなるなら、多少は意味のあることかもしれない。

黒人の彼を「ヤンキー」だとか言っているとトンチンカンな話になってしまうけれど、いずれにせよ、更生した元ヤンよりも、ずっとまじめにやってきている人の方を讃えるのが筋なんじゃないかと思う。

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2009年10月15日 (木)

民意のようなもの

Top_yellowふと気づけば十月もなかば。「夏の間ブログを休む」とは言っていたものの、これはこれは長い夏休みになってしまいました。九月の終わりごろに予定外の用事が入ったもんだから、そのままボヤッと過ごしにしていたら、あれま、もうすっかり秋ですね。

というわけで、ブログを再開します。

この間いろいろなことがあったけど、まずは肩慣らしに軽い話題から始めようかね。よし、じゃあ、本当なら先月の今頃に書けばばっちりのタイミングだったはずだけど、この前の総選挙のことにしよう。民主党が圧勝して、自民党が下野して、と、いちおう歴史的な選挙となったものの、ぼくには今回の選挙に(も)大いに疑問がある。それはとりもなおさず九十四年に衆議院選挙に導入された小選挙区制の問題のこと。

下記の文章はお寺の新聞に書いた物のほぼ転載だけど、手抜きと言うなかれ。リハビリにはこれぐらいがちょうどよろしいのである。

では、では。

 

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民意のようなもの

今回の選挙結果は、民主党308議席、自民党119議席、公明党21議席、共産党9議席、社民党7議席、みんなの党5議席、国民新党3議席、新党日本1議席、新党大地1議席、諸派・無所属6議席だった。しかし、これは果たして民意と言えるのか。

小選挙区制は比較第一党が議席を不当に獲得することになって、民意を議席数に反映させるための選挙制度として明らかに欠陥品である。小選挙区の議席を見れば、民主党は得票率47%で221議席(議席占有率74%)の一方、自民党は得票率39%で64議席(同21%)、共産党や公明党は数%の得票率があっても0議席だった。また、死票も多く、今回でも小選挙区への投票総数7000万票余りのうち半分近くの3300万票が死票となっている。死票が過半数を超えた選挙区は実に300選挙区中87選挙区にのぼる。

現在、衆議院は小選挙区が300議席、比例区が180議席だが、仮に、比例区の得票数で総定数480議席を配分すると、民主党は得票率42%で204議席(104減)、自民党27%で128議席(9増)、公明党12%で55議席(34増)、共産党7%で34議席(25増)、社民党4%で21議席(14増)、みんなの党4%で21議席(16増)、国民新党2%で8議席(5増)などとなる。今回の記事は数字が多くて申しわけないが、より民意を反映する比例制とこうして並べてみると、小選挙区制がいかに民意を反映させない制度であるかがよくわかる。

これまでの自民党の悪政にぼく自身辟易としていたけれども、有権者の投票行動から見れば自民党のこれだけの惨敗は望まれていないのであり、民主党のこれだけの圧勝は望まれていないのである。そして、現実には少数の議席しか持たない政党に実はもっと期待が持たれているのである。かように有権者の意見は多様なのであり、それを踏みつぶす小選挙区制は、とてもではないが民主的と言いがたい制度なのである。

ところがあろうことか、民主党は180の比例区を80減らすと言っている。彼らもまた「民主」とは名ばかりの政党なのか。うーん、そうか。「私はあなたの意見に反対だが、あなたが意見を表明する権利を私は命をかけて守る」という民主主義についての有名な言葉があるが、民主党はこの言葉の爪の垢(?)でも煎じて飲んでください。

思い返せば、前回の「郵政選挙」でも同様のことが起きていた。郵政民営化を単一の争点にして行なうと当時の小泉首相が宣言した総選挙は、郵政民営化に賛成していない候補者のほうが得票数で上回っていたにもかかわらず、国会では賛成議員が七割以上の議席を占めた。つまり、もしこれが郵政民営化を問う国民投票であったなら民営化は否決されていたのである。その後の無責任政治はここで改めて言うこともない。

民主党が勝ち自民党が負けた理由やその意味は、選挙後いろいろと解説されてきた。それぞれそれなりになるほどと思う。しかしそれよりも何よりも、ここまで圧倒的な勝敗差がついた理由は、小選挙区制というペテンの制度にこそ原因がある。

民意を反映しない議会にどれほどの権威があるのか、ぼくにははなはだ疑問だ。

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選挙結果を受けての解説で、小選挙区制のことを問題にしたものは残念ながらほとんど聞かれなかった。導入当時の選挙制度の審議会の委員に新聞やテレビ各社の社長がずらりと雁首を並べてケツの毛を抜かれていたのだから、それも仕方のない話なのかもしれないが、これまでに何回も選挙を重ねてきて、無責任な政治がまかり通るようになって、その結果これだけおかしな国になってきているんだから、そろそろまじめに批判をしていただいてもよろしい気がする。

記事内の数字は赤旗の記事(九月三日付九月七日付)を利用したわけで、それ以外の一般紙にも数字はあったのかもしれないけれど、よくは知らない。が、少なくとも、普通に暮らしていて、これだけ問題の多い選挙制度を話題にする政治解説をほとんど目にすることがないのは(ぼくがそれ以外に目にしたのは週刊金曜日だけ)、この国のジャーナリズムが相当劣化していることを示している。

「小選挙区制を導入し、今回ようやく二大政党の政権交代を成し遂げたのは、それにすべての力をかけてきた小沢一郎の執念の結果」だとかの下らん解説は、世の奥様やギラついたオッサンや呆けた若者にはぴったりの話かも知れんけど、世間を憂う者にはデキの悪い講談にも聞こえない。

直接制ではなく間接民主制でやっている以上、議会はどうあっても直接の民意ではない。だから、選挙制度はできるだけ民意を反映したものでなくてはならないのは当然のことじゃないかと思う。小選挙区制の利点として挙げられる「民意の集約」について、民意の間接的な表現である議会それ自体がすでに民意が集約された状態なんだから、それをさらに集約してどうするかという話である。「集約」がそんなに大事なら、いっそのこと「議員は二人で充分」とでも言ったらどうだ。お得意の議員削減も同時に達成できるぞ。

選挙後、「自民党の再生」とかと題して新聞や雑誌で記事が書かれていたりするけれど、ぼくは自民党になんか再生してもらいたいと思わない。とっとと解党して、議員、党員たちは地元の町内会の役員でもやっていたらよろしい。森喜朗が町内会長だったら秋のお宮さんの祭りはきっと盛り上がるぞ。二大政党制のためには自民党の再生が不可欠なんだそうだが、二大政党制自体が望ましい状態でもなんでもないし。

・・・・と、これ以上書き出すと話が終わらなくなるので、今日はここまでにしときます。

今回の記事は時期はずれの軽い話題ですみませんでした。今後はタイムリーな記事を心がけるようにします。

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2009年7月25日 (土)

いちおう、歴史的な選挙、のはず

Top_yellow選挙管理内閣としてしか期待されていなかったのに、麻生太郎クン、何をとち狂ったか本格政権を目指してしまって、さあ大変。ドンヅマリのフンヅマリ。結局、氏がやったことでいいことって、漢字本の売り上げを伸ばしたことぐらいじゃないの? 漢字本の営業が総理の仕事とはあんまり思えないけど、まあ多少の経済対策にはなったんじゃないでしょうか。

解散ご苦労さまでした。さようなら麻生さん。

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さてさて。

せめてこれが自民党や民主党などの保守・右派政党と、共産党や社民党などの革新・左派政党との二大政党なら、ぼくもここまで眠たい気分にはならないのかもしれない。ところが現実は自民党と民主党の二大政党。馬鹿げている。

「ここ最近、ほんと日本はおかしくなった」と嘆く声をよく聞くが、ぼくはそう思わない。政治的な物心がついたときから、ぼくは一度たりとも自民党(保守政治)に政治的な正しさを感じたことがない。つまりぼくには「ここ最近」ではなく、生まれてこの方ずっとこの国はおかしくなり続けているのである。

ぐるりと見渡せば「生活の保守」どころか、子供の頃には賑やかだった地元の祭りはさびれ、歩いて行ける店も減り続け、農業も憲法九条も医療も年金も労働環境も教育も崩壊寸前。それもこれも政治的な作為もしくは不作為の蓄積の結果だ。

今般の総選挙で、戦後一貫与党としてこの国の悪しき政治文化を引っぱってきた自民党がようやく敗北しようとしている(ぼくには「勝利」だが)。とっくの昔にこの国の政治から退場しているべき政党の、小選挙区制による延命もとうとう限界が来た。自民党が第一党から(多分)転落するのは、確かに歴史的なことに違いない。

だが、代わって政権を(多分)担う民主党とはどれだけの政党だろうか。「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する。だから政権交代が必要だ」。彼らの中にはバカ正直にも自らが将来必ず腐敗することを宣言している者がいる。政権獲得が手段ではなく目的化した、いかにもおっちょこちょいな「宣言(=マニフェスト)」である。

歩いて行ける店=個人商店や中小の小売店にトドメを刺したのは、大規模小売店舗法(大店法)の撤廃だ。九十年代に入って、アメリカの意向に沿い「規制緩和」を合言葉に徐々に規制を緩め、二〇〇〇年ついに撤廃された。八百屋が巨大店に素手で勝つなぞ無理な相談だ。資本主義経済ではそれも仕方ないと訳知り顔をしてるうちに、町の顔はすっかりノッペラボウになっている。

そうした中でのバカ勝ち組のひとつイオン。そこの御曹司は、鳩山由起夫民主党代表(氏が総理になれば何代続けて世襲総理?)より人気があるという岡田克也氏だ。そんな彼が最有力幹部をしている政党に、庶民の日々の暮らしをギリギリ守ってきた大店法の復活を望むのは、いかにも筋が悪い。

ドングリと椎の実ほどの差しかない二大政党は、国民にとって自業自得とはいえ不幸である。そんな中、今回の選挙で真に注目すべきは、自民党の「敗北」や単純な民主党政権の誕生などではなく、共産党などの伸長具合であって、そこにこそ日本の将来の鍵がある。

もちろん実際には、民意を議会に反映させるには欠陥商品である小選挙区制の下、少数政党が伸びるのは難しいだろう。どうあれ、しばらく国会ではでっち上げの民意をネタに茶番じみた政権交代劇が演じ続けられる。眠たい話だ。

それでもシラケることなく投票には行こう。なんだかんだといっても投票はぼくたち国民の最大の「武器」なんだから。

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ということで、例年のごとくお盆のため、しばらくのあいだ夏休みをいただきます。ブログは九月の半ば、もしくは下旬に再開したいと思っております。

今年の夏はまた猛暑? また酷暑? ぼくはぜひにも冷夏をお願いしたい。冷害上等、不作上等。期待してます。

それではみなさま、楽しい夏をお過ごしください。

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2009年7月15日 (水)

シートベルトとか、ちゃんとたばこを消す若者とか

Top_blue最近はタクシーに乗ると、機械の声で「シートベルトをお締めください」と言ってくる。ぼくがタクシーに乗るときというのは大概酔っているんで、「ほうかね、ほうかね」てなもんだけど、所によってはタクシーの禁煙も進んでいるし、タクシーに乗るにも、余計なお世話が増えてまいったもんである。

タクシーの運転手さんもバカバカしくてやってられないんだろうなあ。死亡事故を減らすために、後部座席もシートベルトを締めないといけないんだそうだが、締めないからといって運転手さんから文句を言われたためしはないなあ、今のところ。

ひとつ私はおうかがいしたいんだが、市バスとかで立っている乗客っていうのは、あれはどうなるわけであるのか。座っている乗客だって、あなた、道路交通法でシートベルトを義務化した趣旨から言えば、シートベルトはいるでしょうに。バスの運転手さんは絶対の絶対に安全運転だから、絶対の絶対に事故を起こさないとでも言うのかね。

ぜひともバスもシートベルトの着用義務化と、客の立ち乗り禁止と、それから車椅子の乗客も車椅子をボルトかなんかでがっちり固定した上で、体を車椅子にベルトで固定してもらわんといかんっ! ぜひともそうせんといかん、いかん! とでも言うのかね。

まったく、バカにした話である。こんなのはザル法と言うのももったいない、「こどもぎかい」が作った「こどものほうりつ」である。

ぼかあね、外へ出るたびにこういうことをいろいろと考えさせられて、最近家から出るのが非常に嫌になってきているわけですよ。息苦しい。生き苦しい。実に生きづらい世の中になってます。

この前、近所の大学の前を通りかかったら、たばこをくわえた学生が正門を通っていざ学内に入らんとするところであった。この学校はいつの頃からか「敷地内全面禁煙」だそうで、さてこの学生どうするもんかと思って見ていたわけだが、ちょうどその時、校門前の通りを地元の中学生か高校生ぐらいの若い衆が原付を三人乗りして通り過ぎて行った(この辺りはどうも道路交通法特区らしく、こういう風景をよく見かける)。で、たばこをくわえた学生もどちらかというと、「大学生」というよりは三人乗りが似合いそうなヤンキー風情であった。

はてさて、学生はちゃんと校門前でたばこをポイ捨てして正門を通っていたのである。なんだこいつ、見かけによらず、とても律儀なヤツじゃないか。余計な摩擦を避けるスベを、この年にしてすでに身につけているのだなあ。

三人乗りのヤンキーと、たばこをちゃんと消す学生と、そのコントラストがまたぼくの心を揺さぶってくるのであった。

今時の若モンは勢いがないだの、なんだのと好き勝手に大人は言っているけれども、そういう人間を育てているのは一体誰か。喫煙禁止などという高校生ばりの規則を大学生に守らせて、一体なにがしたいのだろうかねえ、世の大人たちは。これで「元気がない」だとか勝手なことをよく言えたもんだ。で、挙句に大学生を「生徒」と呼び、「十八歳で成人は早い」と言う。いろんな場面で彼らから大人になる練習の機会を奪っといて、いつまでもガキ扱いしているのは一体誰なのか。で、この学生に「ポイ捨てはいかん」とか言うんだろ? バカな大人が、また。

実に生きづらい世の中です。

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2009年6月 5日 (金)

マスクの人たち

Top_blueゴールデンウイークの頃から始まった豚インフルエンザ騒ぎは一体なんだったのか。またしても政府が危機をあおりマスコミがそれに乗っかるという、いつもの風景が繰り返された。

様々な行事が中止・延期となり、日本で第一号の感染者が出たとされる神戸では(その人が本当に一人目の感染者か怪しいらしいが)、商店街や地下街の人通りが絶えてしまい、店が自主的に休業してしまうほど。病気の恐ろしさよりもずっと怖いのは、行政やマスコミという権力の強大さであることを実感させられた。

舛添厚労大臣がここぞとばかりに嬉し恥ずかし必死な形相で感染予防を訴えた後に、麻生首相が政府広報で「冷静な対応をお願いします」と、総選挙が近くなければきっとやらなかったであろうコマーシャルをやる。ニュースやワイドショーは二週間も経った頃に「少し過熱報道にすぎたかも」などと殊勝なことを言い始めたが、何をいまさら、見事なまでのマッチポンプである。

彼らのやっていることは「危機管理」などではなく、健康ファシズムを背景にした、子どもじみた「危機管理ごっこ」でしかない。

今回なんとも不気味だったのは、マスク姿が街中にあふれかえったこと。マスクをつければ人相が隠れ、表情がよくわからなくなる。白色ばっかりで全然おしゃれじゃないし。全国的に見ればそれほどでもなかったようだけど、関西では一時当たり前の姿となった。「感染者」が偶然関西に多かったからそうだっただけで、条件さえ合えばどの地方でもマスク姿があふれかえっただろうことは想像に難くない。

豚インフルエンザが騒がれ出してすぐにも、マスクの効果は非常に限定的と言われたにもかかわらず、同時に最新の不織布のマスクはいかに飛沫が飛ばないか、テレビで黒を背景にくしゃみする姿を映し出し、営業効果はばっちり。霊験あらたかな御守りとしてどこも売り切れになり、おかしな宗教の信者よろしくマスク姿がゾロゾロ、ワサワサと湧いて出てきた。

全体主義というのは、「全体」がついてこなければ成立しない。今次、危機管理ごっこに煽られて行事を取り止め、マスクを買い求め、マスクをつけた人たちというのは、その意味で残念ながら権力の思惑通り全体主義に乗っかった人たちである。横並び意識、同調圧力が強い日本では、自身が全体主義に乗っかっている自覚を持ちにくいのは確かだけれども、しかしまた、こうした人たちが今回全体主義を下支えしたのも確かなこと。

同居人もまた、通勤時にマスクをつけるよう職場から言われ、それを実行し、それでぼくから「ふーん、そうか、きみもまた全体主義を支持したのかね。危機管理ごっことつき合えるんだぁ。そうかね、そうかね」と、ねちねち糾弾を受けるハメとなり、ぼくはぼくで気分がドンヨリ滅入ってしまった。

第一号の感染者となった高校生の校長は何をとち狂ったのか、記者会見で涙を目に浮かべていた。会見直前に生徒から涙ながら「ご迷惑おかけしてすみません」と連絡があったからなんだそうだが、校長が一緒になって泣くなんて、おいおいおい。違うんとちゃうか? 「ああいう大人にだけはならないでおこう」と当該高校の生徒たちが学んでくれたら、せめてもの救いなんだけど。

 

こんな国、ほんとにやだと思う。

 

社会保障費が増大する中で、「消費税増税やむなし」の意見が今醸成されようとしている。が、消費税はどうあっても貧乏人のほうが負担が大きい不公平な税制だ。いずれ消費税増税の議論が本格化した時、「マスクの人たち」は消費税の不公平さを忘れて「増税もしかたがない」と言ってしまうんだろう。

四月の北朝鮮の「飛翔体」騒ぎの時、地対空ミサイルが実戦配備され、また今、自衛隊は「盗賊鎮定」のため遠くソマリアに派兵されている。こうした既成事実が積み重なる中、現実に戦争の危機が迫ってきたら、「マスクの人たち」は再び危機管理ごっこに乗せられ、日本に憲法九条があることもすっかり忘れて「武力行使はしかたがない」と言ってしまうんだろう。

全体主義を防ぐにはまず、危機管理ごっこをせせら笑う力を民の側が持つことだ。

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2009年4月25日 (土)

つき合って一緒に沈むのはいやだけど

Top_red前記事の小説『嫌ブス権』はどうでしたか? 小説などという不慣れな手法をとったので、まあいろいろと「不適切」な表現で不快な気分を持った方もおられましょう。しかしながら、「不適切」と言うならよっぽど今の世の中のほうが不適切だろうと、ぼくは思います。もし当該小説を読んで不快感を持たれた方がおられましたら、もっと大きな不適切に対して更なる不快感を持ってくださることを期待します。

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かつて成人男子の九十五パーセントが喫煙者だったこともある国で、たばこがここまで世間から嫌われ者になるとは、その頃に生れ落ち、日常的に煙に「被曝」しながらも特段不都合なく育ってきた者としては、ちょっと異様なものを感じる。キセルがトレードマークであった鬼平犯科帳の長谷川平蔵でさえ、時折作られる新作ドラマではキセルのシーンがまったくなくなってしまった。この春から、JR東海の在来線では喫煙所がなくなってしまい、京都でもタクシーがほぼ全面禁煙になった。

うちの近所の大学では構内完全禁煙とノボリが立っている。これからは大学でもたばこを吸うと停学にでもなるのか? まあ、最近は大学生も「学生」と呼ばれず「生徒」と言われるぐらいだから、しゃあなしか。高校生みたいに停学にでもなんでもなっておくれ。それにしても、学生自治とかそんな言葉はすでに死語なんだろうなあ。こうしたことを決めた大学職員も、自身がそんなことを経験していない世代が中心になりつつあるだろうから、「学生自治」の「が」の字も思い浮かばなかったろうことは同世代の者として容易に想像がつく。そしておそらく、こうした決定過程が教育機関としての大学の役割を放棄している姿なのだということを、彼らはわかっていない。

 

ぼくが思うに、たばこがここまで社会的な排除の対象となるのは、いじめの言いがかりとしてよく使われる「くさい」をたばこには堂々と言えること、健康至上主義、健康病という現代先進国のヒマ人のヒステリックな心性、それと、病への認識の仕方、そんなあれこれが絡み合いながら、この問題の下に横たわっているのだと思う。

十九世紀の科学技術の発展は、コレラやペスト等の細菌が原因となる病を次々と克服、制圧した。二十世紀に入ってからも天然痘を完全制圧し、結核を不治の病から治る病にしてしまった。近代医学の発展は、病を呪術の対象から科学の対象へと人々の認識を変えてしまう力を持っていた。まさに科学の勝利であり、人類の進歩である。

こうした病気は、病気に対応する原因が○○菌等と(今でこそ)比較的単純だが、こうした病気が克服されて以降死因として上位になってきた疾患は、その原因が多岐にわたる。がんや内臓疾患の原因は決して単純なものではない。生活習慣病、成人病などといわれるものはおしなべてそうであろう。現代において、死因につながる病気の予防は「○○をすればよい」などといったことですむことはない。

生活習慣病、成人病の多くは、そういった病気になれるほどに長生きできるようになったからではないか、つまり、何らかが原因というよりも、時間とともに進行していく「老化」が病気を発症させていると言ったほうが正確なのではないかと、ぼくは思っているのだが(いろんな病気を引き起こすとされる肥満は、むろん老化ではなく、食の先進国への偏在化による栄養過剰がその原因だろうが)、十九世紀型の病気の認識の仕方に慣れ親しんできた近代人は、これらの病気に対しても単一の原因を「期待」する。そして、その対応策を単純化する。「心臓病予防にはポリフェノールがいい。それを有効に体に取り入れるにはワインがいい。お茶がいい」「がんには○○が効く」「納豆でダイエット」「バナナでダイエット」「メタボのあなたに必要なのは○○!」・・・・。話がウソであろうがマコトであろうが、こうしたブームが繰り返されるのは、現代的にアレンジしなおされた十九世紀型の認識を多くの人がいまだに続けていることの証左だろう。しかしながら健康で長生きするのもしないのも不確定要因が多すぎて、多くの人にとって病気の原因と結果が一対一の対応関係を結ぶことは少ないのである。「科学の力」によって長生きを手に入れた現代先進国の人が雑多な情報にふりまわされている姿は、健康にしか生きがいが見つけられなくなったヒマ人の贅沢にして空疎なヒマつぶしに見えなくもない。

複雑な要因を持っているはずの病気について、病気から原因を見るのではなく、原因から病気を眺めたとき、日常生活に溶け込んだたばこという嗜好品ほど都合がいいものはなかったのだろう、現代的十九世紀型認識によって、様々な病気の原因のジョーカーとしてたばこはお白州に引きずり出された。

「くさい」に過剰に反応するのもまた、現代における病的な状況と言えるだろう。たき火はおろか、マンションの隣室の蚊取り線香のにおいにまで反応する住民。いまやどこにいっても消臭モノは人気商品である。いじめの定番に「おまえ、くさい」があるのは、嗅覚が原初的な感覚だということもあるだろうが、他者との接触回避の心理の表われとしての過剰な「ニオイ忌避」とも無縁ではあるまい。しかして、受動喫煙の害の「科学的根拠」を見てみるに、果たしてこれが科学かと思われるようなあやふやなものばかりだが、こうした中でたばこが槍玉にあげられれば、そこに科学的根拠があろうがなかろうが、そんなことはもうどちらでもよい。なんせ「くさい」という直接的に「私」に訴える不快感があるのだから、たばこ排除は不可避である。それはあたかも、「だってあいつ、くさいし」と、「いじめられるほうも(が)悪い」というイジメの本音を、たばこ排除の場面で代償させているかのごとくだ。

排除の対象が、 たばこと同様に存在自体が人に不快感をもよおす「ブス」や「○○」でないのは、偶然にしか過ぎない。「○○」には、あなたが不快を感じるものを代入せられたし。そこに少しでも嫌われる要素があるならば、酔狂な「科学者」がいずれそれに「科学的根拠」を与えてくれるに違いない。

たばこの害はWHOがどうとか言っているといっても、地球温暖化の議論がWHOにおいて科学的議論というより政治化してしまっているという記事、論評をあちこちで目にするように、たばこも同様、WHOの報告が絶対化されるものでは到底ない。

と、たばこの議論もここまでなら、ひとつの文化論として、ぼくもたばこ好きの側から議論に乗ろう。たばこを好き嫌いのレベルで語ること自体の是非はない。嗜好品対毒ガス・危険物という、絶対にかみ合わない不毛な議論が繰り広げられるのも、議論の整理がついていない以上、致し方ない面もあるとして認めよう。

だが、こと昨今におけるたばこ排除の論理は、似非科学だけではなく法律、条例まで持ち出してきた。たばこへの法による決裁は、私的領域への政治介入以外の何ものでもない。たばこ嫌いの人にとっても、私的領域への政治介入は許されないものだろう。ましてや、法の裏付けとなるべき科学的根拠はあいまいなものである。

嫌煙権は文字通り法的な権利となり、ここにいたれば、たばこの好き嫌い(もしくはたばこの科学的正邪)の議論はすでに質的に変化をしてしまった。それを意識せずして、今たばこの問題を語ることは、あまりにも権力への緊張感がなさすぎの、呆けた議論でしかない。現代政治はそんな素朴な生きかた、ものの見かた、考えかたを見事にすくいあげて、支配の論理へと組み替えていく。「マナーからルールへ」という、一見もっともな標語に潜むあぶなさは、たばこどころではない、権力の危険なにおいがプンプンだ。

路上喫煙禁止区域で、同じたばこを吸わないといっても、確かに今ここで吸うのは迷惑だからとたばこを遠慮するなら自律的人間ともいえようが、ここは禁止されているからとたばこを遠慮するならば、それは権力がまさに欲するところの被統治者の生きかたそのもの、人畜無害の人である。

たばこが好きだろうが嫌いだろうが、ブスが好きだろうが嫌いだろうが、それは恣意的な事柄であって、基本的に私の領域に属する。そこに文化論としての正しい、間違いの議論は成立しえても、法によって正邪を決められることではないし、決めてはならないことだ。近代政治において、私的領域への政治介入をなしくずしにしながら事を進めるのは、思想的に近代以前に戻ることであり、現実社会にファシズムを招来することとなる。

私的領域の政治化はファシズムへの第一歩、もしくはそれそのものであり、そのもっとも先鋭化した姿は戦時に立ち表れる。武器を持った者は、「人を殺したくない」という私的領域の最後の一線までもが権力によって戦争の論理に塗り替えられ、人を殺す。爆弾の下では人に私的領域など存在する余地もなく、政治によって虐殺されるのみだ。

治安維持法が成立する前、「不埒な者」を拘禁するのに猛威をふるっていたのは、浮浪罪という軽犯罪であったということもまた心にとどめておいたほうがいい。

なにもたばこに限った話ではないが、権力との緊張関係があまりにも希薄なこの社会に生きていると、ぼくの耳に聞こえる戦争への足音は空耳ではないのかも、という気がしてならない。

 

 

小説本文よりも長い解題となってしまいました。

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2009年4月 5日 (日)

めくらとか気違いとか共産党とか

Top_blue世の中には差別語というのがあって、そういうのは使っちゃいけないんだそうな。言葉によっては確かに不穏当な表現というのもあるけど、言葉そのものを使わないように規制するのは、やっぱりおかしなものだ。

「行方をくらます」、これはOK。「めくらまし」、これもOK。でも「まし」を取ると、それはダメーっ!ってなんだかなあ。

気が違うから気違いなんであって、それの何が差別か。何が不穏当か。クレイジーと言えば何か変わるのかね。英語で言えば上品な気違いになるとでもいうんですか。

たしかに、相手のことを理解できないというだけで、「お前はキチガイか」と罵倒してきた歴史があるだけに、「気違い」を使うことになんらかの気遣いは必要に違いないけれども、漢字変換から「きちがい→気違い」を排除する文化はいかがなものかと思う。ネット掲示板では「基地外」と当て字にして、もっと隠微な雰囲気プンプンである。

集落という意味で「部落」を使おうとする人が、遠慮がちにこの言葉を使うのをぼくは何度も体験しているけれど、これにも差別の歴史が後ろに控えているから、どこか遠慮してしまう気持ちが入り込むのだろう。

「片手落ち」を放送で使うと、これまた事後にお詫びがある。これは「片・手落ち」であって、「片手・落ち」ではない。これがだめなら「手落ち」もだめである。勝手に「片手のない人に不快感を与える」とか言い出して、こういうのをイチャモンとか難癖、言いがかりという。

ぼくは大学でマルクスの勉強をやっていたから「共産党」という言葉に抵抗感はないけど、いまだに世の中の一部では「共産党」という言葉は見事なまで差別的に響く。

何年か前、奈良のどこだかの現役最年少市長の話題をテレビでやっていた。市長の登庁初日、市長室に表敬訪問にやってきたギトギトあぶらオヤジの市議会議長に市長が、
「市民の代表として一生懸命やって行きたいと思います」
とあいさつしたら、ギトギト議長は、
「なんで君みたいな若造にそんなこと言われなあかんねや。ん?ん?ん? ところで君は共産党ちゃうやろなあ。ん?ん?ん? ほうか、ほうか、ちゃうんか。ほな握手や」

「共産党」のところを、「在日」だとか「被差別部落」だとかに置き換えてみれば、こうした発言に存する差別意識がはっきりわかることと思う。彼にとっては「共産党」という言葉は、「アカ」「非国民」に代わって、いまだに堂々と使える差別語の役割を持っているわけである。

こうした「文脈で示す差別」が堂々とテレビで流れてもOKだということが、ぼくからしてみるとなんともすごいことだなあと思う。日本共産党が万が一にも党名変更をした日にゃ、「共産党」という言葉は差別語に数え上げられて気軽にテレビで言えんくなるんかなあ。

この時、市長は共産党と違うからだろうが「違います」と答えていたけど、「共産党です」だったらどうなっていたんだろうかね。この市長がどういう考えかは知らないけども、「共産党であろうがなかろうがどっちでもいいじゃないですか」と答えられない所に差別の根深さを感じる次第である。

言葉というのは文脈の中でこその意味合いというものがある。馬鹿にしたり無能呼ばわりするために使うのは論外としても、「目の見えない人」を「めくら」と言うことに過剰に反応するくらいなら、もっとやることがあるだろうにと思う。

 

そうそう。北朝鮮のロケット発射に、自衛隊の迎撃ミサイル実戦配備。こういうのは、「気違いに刃物」という言葉がぴったり当てはまります。ただし、北朝鮮にだけ言って日本に言わないのは、それこそ片手落ちです。

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