時季がずいぶんとはずれているけれど、今日は年賀状のことを書く。
ぼくは年賀状というものを小学校の時に書いて以来、ずっと書いてなかったんだけど、十年ほど前に同居人と暮らすようになって、毎年、年末になると同居人がせかせか書いているのを見ていたら、「おれもいっちょうやってみるかあ」なんて気分になって、何年間か続けたんだけど、結局めんどくさくなって二、三年前にまたやめてしまった。
小学校一年生の時、冬休み開けの始業式の日、担任の先生が自分に送ってきたクラスの子の年賀状を、教室の後ろに張り出した。送らなかった子もいたろうに、あれはどういうつもりだったんだろうかと、大人になって考えてみるによくわからないんだけど、もしかしたら、何十枚も返事を書くのが面倒なもんだから、そうやって張り出すことで、「みんなありがとうね」ということだったのかもしれない。もしかしたら年末の最後の授業で、「年賀状を書こう」なんていうのがあったのかもしれない。
そのへんの経緯は今さらもういいとして、ぼくは自分の年賀状が、他の友だちの「あけましておめでとうございます ことしもよろしくおねがいします」的な定型シンプル文面と違って、普通の手紙のような文面になっていて、なんか少し恥ずかしかったことを覚えている。その時は、常識的な年賀状の型なんてまだ知らなかったし、親も教えてくれなかったもんだから、「あけましておめでとうございます」の後には普通に先生へ手紙を書いたわけである。多く書くぶん字は小さくなって、他と並べて見ると、良く言えば子どもらしくない大人びた感じ、悪く言えば「勢いないね、この子」である。変といえば変。個性的といえばほめ言葉にもなろうか。
その頃からぼくは「常識無用、非常識上等!」の人間だった、というよりは、ただそれを知らなかっただけで、そのことを親も知ってか知らずかほったらかし。それが今のぼくにどう影響しているのかはわからないけれど、「一言多い」というのだけは、その頃から変わりのないところではあろう。
年賀状は虚礼だとかナントカと評判の悪いことを言われたりすることもあるけれど、ぼくはそこまで悪くは思わない。暑中見舞い、寒中見舞いともども、あってもいい季節の習慣だと思う。以前兄に聞いた話で、学生時代とても世話になった恩師の老教授は、
「年賀状が届かなくなったら、俺は死んだと思ってくれ」
とよく言っていたそうで、ああ、年賀状にはそんな使い方もあるのか、と感心したものである。どうせ年賀状を続けるなら、そんな年になるまで書いていたいと思ったものだけど、結局、自分でなくて、父が死んだ年の喪中葉書がめんどくさくなってやめてしまった。
同居人を見ていると、去年も十二月の三十日になって、どの図柄をダウンロードしようかと三時間も四時間もネットを見ているもんだから、
「あのさあ、そうやって探しとる時間に手書きでやっとったら、もう終わっとるんちゃうの?」
ってなもんである。まだおせちも作らんといかんのに、なにをアホほど時間をかけとるんだろうか、とろにゃーか、と思ってしまうわけである。印刷モノの年賀状なんて、もらっても、十秒見るかどうかのもんなのに、
「なあなあ、どっちの絵柄がいい?」
とか聞かれてもなあ。そんなんどっちゃでもいいわ。もらったほうも、お前の選んだ絵柄なんて、次の人の年賀状見とるときには、すっかり忘れとるわ。
同居人のそういう姿を見ていると、確かに、文面使いまわし系印刷モノ年賀状は、作成の努力及び経費と送付効果とをあわせ考えるに、虚礼と言ってもあながち間違いではないなあ、と思ってしまうのである。ご苦労なことです。
ぼくが何年か前まで書いていた年賀状は、十何通ぐらいだから印刷する手間のほうが面倒だし、そもそも、もらっても味気ないと思っている印刷モノにする気もなし、古式ゆかしく筆で「あけましておめでとうございます」と大書きして、ほんでもって近況報告を書いて、ちゃっちゃっちゃーのちゃーでおしまいであった。気が向けば自分の似顔絵のひとつでも書いたか知らんが、そんなことはもう忘れた。いずれにせよ、小学校一年生の時のように文章をしたためるならいざ知らず、読まれても十五秒もかからないようなものに、そんなに手間ひまをかける気にならない。
そうそう。写真つきの年賀状、あれはいらんなあ。特に子どもつき家族写真。その中でも特に子どもだけの写真のやつ。この記事を読む人の中にそういうのを送っている人がいるかもしれないけど、気を悪くされたなら、まあこの際です、一度気を悪くしていただきたい。
家族ぐるみのつき合いがあるなら、それはそれでいいんだけど、そうでもないのに、家族全員連名の家族写真つき年賀状をもらっても、「ふむふむ」というだけで、だからなんなんだ、という話である。子どもだけの写真のにいたっては「???」である。親バカというよりはバカ…、いかんいかん。
考えるに、その人にとって家族のことこそは人に伝えたいとても大切なことであって、その安寧な姿こそ一番伝えたい近況報告なんであろう、と。個人と個人のやりとりであるはずの年賀状にさえ家族を登場させるのは、その人の精神的、人格的安定は家族の安定による、ということを示しているのであって、すなわち家族写真つき年賀状は差出人何某氏のマイホーム主義の見事な表現である、と、まあ概略このようなことを思うわけである。
マイホーム主義のなにがいかんのだ、と言われれば、「家制度の現代的変容じゃないのかね」と言うだけ言って、あとは触らぬ神にたたりなし、これ以上の議論を差し控えたいと思うのであるが、でも実際のところ、何年かに一度の年賀状の整理の時、写真つき年賀状というのは、とても処分しにくいわけである(ずっと取っておく人もいるだろうけど)。マイホーム主義な心理を概略考えさせられた上に、処分しにくいとなれば、これはちょっと、気軽な年始のめでたいやり取りを越えている気がするわけである。写真つきのヤツめ、年賀状の分際で、どこまでおれに心理的圧迫をかけるか。
どうせなら、核家族などというチンケな集まりでなく、親きょうだいに爺さん婆さん、いとこにはとこ、一族郎党すべてを収めた写真を全員連名で送ったらどうであろうか。相当に強烈な印象を相手に与えるはずである。毎年楽しみになるはずである、「あの人が今年はおらんなあ、逝ったか」とかね。
とはいいつつ、ぼくが年賀状を送るのをやめてから、ぼくに送られてくるのもぐっと減ったのだから、まあそんなにぐちゃぐちゃと粘着質になることもないのである。大体からして、今日の家族写真つき年賀状の話って、一般論でもあるけれど、ぼくに送られてきたものも当然に含むわけだから、それはすなわち、該当年賀状をぼくに送っていただいた友人にケンカを売ったも同然の所業である。とても失礼な話である。うーむ、これは虚礼以下のことをしてしまった。
友よ、ぼくの一言多いことを・・・・・・、
本当にすまないと思う。