カテゴリー「言葉」の12件の記事

2009年4月 5日 (日)

めくらとか気違いとか共産党とか

Top_blue世の中には差別語というのがあって、そういうのは使っちゃいけないんだそうな。言葉によっては確かに不穏当な表現というのもあるけど、言葉そのものを使わないように規制するのは、やっぱりおかしなものだ。

「行方をくらます」、これはOK。「めくらまし」、これもOK。でも「まし」を取ると、それはダメーっ!ってなんだかなあ。

気が違うから気違いなんであって、それの何が差別か。何が不穏当か。クレイジーと言えば何か変わるのかね。英語で言えば上品な気違いになるとでもいうんですか。

たしかに、相手のことを理解できないというだけで、「お前はキチガイか」と罵倒してきた歴史があるだけに、「気違い」を使うことになんらかの気遣いは必要に違いないけれども、漢字変換から「きちがい→気違い」を排除する文化はいかがなものかと思う。ネット掲示板では「基地外」と当て字にして、もっと隠微な雰囲気プンプンである。

集落という意味で「部落」を使おうとする人が、遠慮がちにこの言葉を使うのをぼくは何度も体験しているけれど、これにも差別の歴史が後ろに控えているから、どこか遠慮してしまう気持ちが入り込むのだろう。

「片手落ち」を放送で使うと、これまた事後にお詫びがある。これは「片・手落ち」であって、「片手・落ち」ではない。これがだめなら「手落ち」もだめである。勝手に「片手のない人に不快感を与える」とか言い出して、こういうのをイチャモンとか難癖、言いがかりという。

ぼくは大学でマルクスの勉強をやっていたから「共産党」という言葉に抵抗感はないけど、いまだに世の中の一部では「共産党」という言葉は見事なまで差別的に響く。

何年か前、奈良のどこだかの現役最年少市長の話題をテレビでやっていた。市長の登庁初日、市長室に表敬訪問にやってきたギトギトあぶらオヤジの市議会議長に市長が、
「市民の代表として一生懸命やって行きたいと思います」
とあいさつしたら、ギトギト議長は、
「なんで君みたいな若造にそんなこと言われなあかんねや。ん?ん?ん? ところで君は共産党ちゃうやろなあ。ん?ん?ん? ほうか、ほうか、ちゃうんか。ほな握手や」

「共産党」のところを、「在日」だとか「被差別部落」だとかに置き換えてみれば、こうした発言に存する差別意識がはっきりわかることと思う。彼にとっては「共産党」という言葉は、「アカ」「非国民」に代わって、いまだに堂々と使える差別語の役割を持っているわけである。

こうした「文脈で示す差別」が堂々とテレビで流れてもOKだということが、ぼくからしてみるとなんともすごいことだなあと思う。日本共産党が万が一にも党名変更をした日にゃ、「共産党」という言葉は差別語に数え上げられて気軽にテレビで言えんくなるんかなあ。

この時、市長は共産党と違うからだろうが「違います」と答えていたけど、「共産党です」だったらどうなっていたんだろうかね。この市長がどういう考えかは知らないけども、「共産党であろうがなかろうがどっちでもいいじゃないですか」と答えられない所に差別の根深さを感じる次第である。

言葉というのは文脈の中でこその意味合いというものがある。馬鹿にしたり無能呼ばわりするために使うのは論外としても、「目の見えない人」を「めくら」と言うことに過剰に反応するくらいなら、もっとやることがあるだろうにと思う。

 

そうそう。北朝鮮のロケット発射に、自衛隊の迎撃ミサイル実戦配備。こういうのは、「気違いに刃物」という言葉がぴったり当てはまります。ただし、北朝鮮にだけ言って日本に言わないのは、それこそ片手落ちです。

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2009年1月25日 (日)

行間ツメツメ

Top_yellow パソコンでいろんなサイトを見ていて思うのは、その行間の狭さだ。本格的なサイトはいざ知らず、一般的なブログはほとんどそう。本の場合だと行間は一行分ぐらいあるものだけど、パソコンだとぎっしり詰まって次の行へ移る。読みにくい。長い文だとなおさら読みにくい。

パソコンでEメールを始めた時、改行して一文字分落とすそれまでの段落替えと違って、一行空けの段落替えに違和感があった。今ではすっかり慣れたけど、そういう「ルール」もネットでの行間ツメツメの表示が影響している気がする。

一段落に一文、二文程度が続く文章はなにか「重さ」がない。むろん「軽さ」を狙って書かれた文章ならば問題ないんだけど、軽い内容でない文章でも、行間ツメツメの読みにくさを嫌って改行せざるを得ない。行間ツメツメを無視して意味内容にしたがって改行を少なく書けば、どんどんと読みにくくなる。

ぼくは、内容にもよるけど、ほっとくと一段落の中に結構文を詰め込む。ぼくに限らず、ちょっと長めの文章では、ざっと五~十文程度でひとつの段落を構成するものだろう。段落替えというのももちろん意味あってのことで、そこで文章や意味の流れを切るためにやるものなわけだけど、ところが、ブログやメールなんかだと意味の流れというよりは、「見た感じの読みやすさ」優先で、一文か二文、三文書いて段落替えなんてのが普通になってくる。

どころか、「いかにもこれブログです」風情な若人のサイトでは、

こんな感じでぇ

なーんか

一言ごとに

改行~ぉしよおよぉ!!!

 

みたいな

みたいなあ~~~~

 

句読点も

ナシッ!scissors

 

みたいな~~~~~~~~!!!

 

キャ~ッ\( ̄▽ ̄)/ 

なんてえのを見かけるが、ここまでくると意味や流れの区切れというより、完全に見た目優先の段落替え、というより改行である。もちろんこれはこれでネットならではの新しい表現だけど、これとおんなじことを書籍でやられたら、こざっぱりしすぎで、金払って本買って半ば騙されたわ感を味わってしまうことになるだろうと思う。

詩というのは、意味内容だけでなく見た感じも重要だ(ろう)から、詩集はこれまでもこんな感じの改行であった。まあ、ぼくは詩というものにほとんど面白さを感じたことがないからどうでもいい話なんだけど、そういう世界に最新のブログでの表現形態が近いというのも、ぼくとしてはなんか感慨深い。 詩ってはっきり物言わんしなあ。書いている本人はそれが美しいと思っているんだろうけど、そういうのって「言語明瞭意味不明」の世界に通じているような。詩に書かれた「言葉の美しさ」をほとんど共有できないぼくには、「勝手にやっとけば」の世界である。

話がそれた。

記事本文はせっかく見た目読みやすくなっているのに、「コメント」欄が改行なしでぎゅうぎゅう詰めの文章になっているのを見かけると、なんか人の家に土足で上がってきたような違和感があったりして、ふむふむである。そもそもが、ネットの行間の初期設定がもう少し広くなっていればよろしいだけなんだけど。

そういえば、ここ最近本を読んでいてちらほらと見かけるようになったものに、「一文一段落」という、過ぎたるは及ばざるが如し、段落の意味をほぼ無効化した文章がある。

以前そのスタイルで書かれた「文章読本」を見つけた。「この人、段落の意味も知らんと文章読本を書いたのか。編集者も出版社もぬるくなったんだなあ。記念に買っとこ」と、思わず購入してしまった。内容も、文章を書くにあたっての留意すべき事柄がズラーーーッと並べてあって、いい文章を書くには何が大切なのかが実にわかりにくい。「これも大切、あれも大切」と大切だらけで、結局のところ、筆者の思いが読者に届かない悪文のいい例の実に役に立たない代物であった。ある意味稀有な文章読本。

それはさておき、今日の愚痴も、さっき言ったように、ネットの初期設定が一般書籍ぐらいにもう少し行間を広くしてあれば丸く収まることなんだけど、 そういう慣習にIT業界が気を遣うとはとても思えない。行間を「無駄な空白」ぐらいにしか思ってないんだろう。ここ何年かパソコンをいじってきて、そういうことをこの業界に期待するのはあまり意味のないことだとわかってきた。

なんか上手いことをすれば、このブログでも行間をもう少し空けることができるんだろうけど、ぼくにはどこをどうしたらいいのかよくわからん。よくわかる気もしない。そんなことにおつき合いする気はない。ぼくも適当に現状に合わせて、短めの一段落と一行空けの段落替えとを励行するぐらいでよろしいかと思う(励行であって「実行」じゃないの)。

「デジタルデバイド」という言葉を最近はあまり聞かなくなった。書籍では当たり前の「適切な行間」で書かれていればたやすく読める一段落が長い文章でも、ネットになると実に読みにくい。そういった古いタイプの、というより標準の文章が読みにくいというのは、これもある意味「デジタルデバイド」だろうと思う。こういう読みにくさが嫌で、しかも、どこかをどうかして適切な行間にできない人たちは、多分こちらの世界にあまり関与したくないはずだ。段落の長い過去の文章を改めてアップしても、行間ツメツメネットスタイルでは読みにくくてしかたがない。

歴史をないがしろにする新しさは、はかなくてもろい。ネットは新しいがゆえに可能性が広く見えるけど、どうなんでしょう、ネットははかなくてもろいんでしょうか、歴史を大切にしていくんでしょうか。

話がにわかにでかくなっちゃったね。

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2008年12月15日 (月)

ひとごと

Top_blue「ひとごと」という言葉、文字表記でよく見かけるのは「他人事」。「人」にはそもそも「他人」という意味も含まれているから、あえて「他人」にすることもないけど、素直に書いた「人事」では「じんじ」と同じになる。それを避けるためのまあこれはひとつの工夫ですね。

この表記に引きずられて、最近「たにんごと」と言う人が増えてきた。この「たにんごと」というのはかなりの人が口にするけど、この言葉が辞書に載るようになったのは最近になってのことだと思う。よく知らねえけど。

「他人事」のノリで、「よそ」を「他所」と書くと、麻生総理でなくても読めない人は少なくないと思う。なんせ漢字はハンザツだしね。よく知らねえけど。

「ひとつき」「ふたつき」を書くときにもちょっと悩む。「一月」「二月」では「いちがつ」「にがつ」と同じ。ぼくは「ひと月」「ふた月」と書くようにしている。

この原則でいくと「みつき」は「み月」だけど、「み月」はちょっと変だなあ。「三月」では「さんがつ」だし、「三ヶ月」に書き換えるかあ。けど、じゃあ「十月十日=とつきとおか」はどないする? 「おなかの中に赤ちゃんがいるのは十ヶ月と十日間」とか書くと、味気ないぞ。

「ひとり」「ふたり」を、算用数字を使って「1人」「2人」と書くのを見かけることがあるけど、これは時にとても違和感があることがある。「10人10色」「10年1日」などと書けば、これはもうすでに新たな文学表現である。

ムツカシイなあ。ムヅカシイ、ムズカシイ。特に和語が絡むと、聞く分には全然おかしくないのに、文字表記になるとややこしくなることが少なくない。

ぼくも「たにんごと」という言葉はすっかり聞き慣れてしまったけど、「他人」の意味で使う「ひと」にことごとく「他人」の字を当てるのには、ちょっと抵抗がある。「他人」と書いて「ひと」と読ませるのは、そもそも無理があろう。それよりも「人」には「他人」の意味があることをよく踏まえて、フシュウしていくべきだろうと思う。ちゃうちゃう、トウシュウ、トウシュウ。あれれ、言葉選び合っとる???

ということで、ぼくは「ひとごと」を書くとき、「人ごと」と書くことにしている。ような気がする。「ひと事」では、「ひと=一」と一瞬「一事」と混乱して、読むのがつっかえる。ような気がする。「人ごと」と「他人事」ではえらい遠く離れた表記だけど、同じ言葉なのですね。ムヅカシイ、ムズカシイ。

言葉は生きていますね。よく知らねえけど。

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2007年11月25日 (日)

ジョクハラ

Top_blue『徒ら草語辞典』 ジョクハラ=屈辱ハラスメントの略。相手や周囲には嫌がらせにしかなっていないような、過剰に屈辱を晴らす行為。

高校の時の友だち(仮にOシマと呼ぼう)が、昇進への道なのか左遷なのかわからぬまま数年前からアメリカに転勤していたのが、この秋ようやく帰国とあいなった。ではささやかながら帰国祝いをしようと、先日飲みにいった。ぼくには動員力がほとんどないんで、ほんとにささやかに二人で飲みにいくことになった。さて、帰国祝いであるからして一軒目はおれがおごってやろう、手羽先のやまちゃんにしようね、おいしいしね、安いしね、ということで、名古屋は栄で落ちあって住吉店に行った。

聞くと、Oシマは昨晩ほとんど寝てないという。そうかそうか、最前線のビジネスマンは大変である。そして実はぼくもその日は朝が早くて、昼寝もしてなかったから、夕方ぐらいからえらく眠くなっていた。ニート坊主はどこまでもシャッキリせぬからいただけない。飲み始めて最初のうちはおたがい意気揚々、あーでもにゃーこーでもにゃーとペチャクチャしゃべっていたんだけど、お酒を二杯か三杯飲んだらぼくのほうが、うう、眠い・・・。

いかんいかん、寝たらいかん、と気合いを入れるものの、しゃべり終わってOシマの話を聞いていると上のまぶたがどうしても下がってくる。最近のぼくは酒席で眠くなると、場の雰囲気もかまわず我慢することなく寝るようになってきているけれども、今日ばかりは別儀でござる。この場には二人しかおらぬではないか。寝てはいかん。ああ、しかし、「おいっ、寝るな」と諌められる声もだんだん心地よくなっていく・・・。

頬をたたかれハタと気づくと、Oシマに「帰るぞ」と声をかけられた。しまった、寝てしまった。時計を見ると九時半。時間にすれば五分か十分か。んっ?んっ?んっ? Oシマはもう清算を終えているみたい。あっ、そう、帰るの? うー、まだ眠たい。寝ぼけまなこで店を出た。

そんなこんなで結局その日はお開き。ぼくは帰りの電車もしっかり寝過ごした。

駅からの帰り道、寒い中を歩いていたらさすがに目が覚めてきた。頭がしっかりしてくると、「おれは、おれは、こんな時間に何をしているんだあー。今日は最低でも日が変わるまでは飲むと決めていたのにー」と、ニワカに現下の事態が飲み込めてきた。「あー、しかもおれがおごってもらっとるがやー。なんてことだー」。こっちから誘っといて、しかも帰国祝いでおごってやると言ったのに、うう、屈辱・・・。

早速Oシマにわぴのメールを入れた。そしてぼくは家に帰ってきて、次にはちゃんと体調を整えて今日のこの屈辱を晴らすことを誓ったのである。ああしかし、このぼくのことである。四人の子持ち、もうすぐ五人め(!)が生まれんとする子育ても大変であろう最前線ビジネスマンのOシマが寝ようとも、「寝るな、寝るな、寝るなー、おれの話を聞けー」といわんばかりのタチの悪い酒になってしまいそうな予感がする。ジョクハラ防止を心がけねばなるまい。

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2007年3月20日 (火)

うさこちゃんはどこへ

Top_blue_14 うさこちゃんはぼくの知らない間にどこかに行ってしまった。

うさこちゃんにそっくりな絵を見つけたので、「あっ、うさこちゃんだ!」と近づいてよく見ると、ミッフィーっていうんだって、この子。ぼくの思い出のうさこちゃんはどこに行っちゃったんだろうね。

この前、筆箱を探しに行ったら、店には筆箱がない。多分使い道は同じものなんだろうけど、ペンケースっていうのしかなかった。

 

ライブハウスに行くと、バンドのライブ告知のチラシが店先によく置いてある。ぼくもたまーにそんなライブ告知を作ることがある。そんな時ぼくはちょっとでも目立とうと、ちょうど脅迫状みたいに活字を切り抜いて白い紙にペタペタと張って作って、それを店先に張らせてもらったりする。切り抜くべき文字を折り込み広告やらナンヤラから探し出すわけなんだけど、そういう時というのは普通の広告の見かたとは違う。

町なかにある看板を見ていると、なにに媚びているのか、横文字やローマ字の商品名や店名、社名があふれかえっている。最近のバンド名や曲名なんか、どこの国のバンドかわからないようなアルファベットな名前ばっかりだ。そんなのにはもうたいがい飽き飽きしているぼくなわけであるけども、文字の切抜きのために広告を見てみると、これが案外横文字が少ない(たいがい多いけど、町なかの看板とかに比べれば、ということね)。

イメージを売り込むのではなく、本気でモノを買ってもらったり覚えてもらったりする広告の場では、ちゃんと横文字やローマ字をやめてカタカナにしているわけである。みなさん、やっぱりわかってるんじゃないですか、横文字、ローマ字が読みにくいということを。

「お気に入り」にしてもそうだ。面白そうなサイトがあると、せっせか「お気に入り」に登録していくわけだけど、登録したてはまだいいものの、登録してしばらくたってからあらためて「お気に入り」にずらっとならんだサイト名の羅列の中から「なんかないかいな」と見ていても、横文字のサイトはよっぽどお気に入りでないと、ぱっと見てもどこのサイトか思い出せない。フォルダ内の数が増えてきて「名前順で並べ替え」をやってしまうと、アルファベットのものは最初か最後のほうにかたまって並んでしまうから、そっちのほうはもう見ない。漢字ひらがなカタカナサイトのほうを探すようになる。だから、横文字サイトで特に気に入ったものは前もってカタカナ表記に変えておく。

日本語の名前をカタカナ語にしたりローマ字で書きなおし、意味不明の言葉を羅列して得々とした気分に浸っている人たちって、やっぱり安倍晋三首相からは、「美しい国、日本を壊す非国民。戦後レジームからの脱却を!」なんて批判されるんだろうね。ぼくは『徒ら草』を“Itazuragusa” ni nante sinai kara monku wa iwarenai darou kedo.Hyoudai izen ni nakami ga kinikuwan ka....

 

それにしてもミッフィーだけはどうにも納得いかん。ミッフィー、ミッフィーと言っているのを見ると、「なんだ、こいつ」と思ってしまうよ。もしかして、子どもの時にうさこちゃんを読んでなかったのかなあ? そうかあ、そうなのか。

おれのうさこちゃんを返せ。

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2007年3月 5日 (月)

お風呂で思うこと

Top_yellow_14この前ライブをした日は、前日に友だちがウチに泊りにきて朝までしゃべっていたもんだから、昼すぎに起きたら二日酔いと寝不足であった。

これはまことによろしくない。「よし、そうだ、今日はリハーサルをした後に、ライブハウスの近所を探して風呂屋に行こう。体調を整えなくてはこりゃ今日はもたん」と、ふやけた頭で考えもって、いざ、ギターケースのポケットに手ぬぐいを入れて、「半オエ~ッ」状態で家を出た。

リハーサルが終わる頃にはだいぶんと調子も戻ってきたけど、やっぱりこのままでは本番を乗り切れそうにもない。風呂屋も幸い表通りに出ると道の向かい側にあることを来る時に確認したんで(めっちゃ近いやん)、さっそく手ぬぐいを持って銭湯に向かった。細い路地を入っていくところに案内板が出ていて、「タオル貸します(二本)。せっけん貸します。シャンプー・リンス貸します。手ぶらで来てください。」と書いてある。なんかサービスええなあ。路地を抜けるとお風呂屋さん。番台でお金を払ったら、「タオル持ってはりますか」と聞いてきた。ほんまサービスええなあ。せっけんだけ借りた。

浴場に向かうと、「手ぶらで来てください」な流れ客相手というよりは、こじんまりとした地元密着スタイルとみた。銭湯なんてのはどこでもそうだといってしまえばそうなんだけど、周囲の下町かげんといい、番台のおばちゃんといい、特にそんな感じ。浴場の片すみにある四人も入ったら満員御礼になる小さいサウナにはテレビもあって、ちょうど「笑点」をやっていた。今日も歌丸と楽太郎はいがみあってるな、などと結局番組が終わるまで出られずかなりしんどい思いをしたわけであるけれども、のんびりゆっくりできたおかげで体調は見事に復活。さらには、帰りにラーメン屋にも寄って「並、こってり」をハフハフすすって完全復活。

ラーメン屋を出て、日も暮れた中、手ぬぐいを頭に巻いてぶらぶらしていると、ライブをしに来たというよりはすっかり地元の人の夕方の散歩状態であった。

この日のライブは他のメンバーやお客さんがどう思ったかは知らぬが、自分としては、ソロをブリブリ弾いている最中に一瞬クラ様(ぼくのアイドル、エリック・クラプトンね)やロリー・ギャラガーが舞い降りてきたりもしたんで、とても気持ちよく楽しめたのでありました。ロック最高! これもお風呂屋さんのおかげです。ありがとうお風呂屋さん、今度もまた行くね。

さて、お風呂屋さんの話をしたのでついでといってはなんですが、もう一つお風呂の話。このお風呂屋さんはウチの近所の風呂屋と違って張り紙とか注意書きが少なかった。ウチの近所の銭湯はあちこちに張り紙やら注意書きがしてある。だいたい風呂につかっているときというのはボーッとしているんで、字が書いてあってもボーっとしか見えてないんだけど、ちょっと調子が悪い文章だとかえって頭の中で妙に引っかかってしまって、「なんかもう少し書きかたを換えられんものか」と添削先生の気分で見てしまうものである。なんて話を前にやっていたブログで書いたことがありました、そういえば。

で、今回は風呂屋での話ではなくて、実家のお風呂のことなんだけど、湯沸しのリモコンのパネルのとこにシールが張ってあって、そこの注意書きがなんか調子が悪いのである。いわく、

「ご注意」
リモコン表面の拭き掃除の
時は湿った布を使用してく
ださい。乾いた布は液晶表
示が乱れます。その時は放
置すると正常にもどり、器
具の動作には異常ありませ
ん。

ね、なんか引っかかるでしょ? 言いたいことはよくわかるし、書くべきことも過不足なく書いてあるんだけど、なんかなんか調子が悪い。湯船につかるとちょうど目が行くとこに張ってあるもんだから、風呂に入るたんびに気になってしょうがない。もし、今これを読んでも調子の悪さにピンと来ない読者のかたがおられるなら、みなさんこれから毎日風呂に入る前にこのページを開いて上の文章を読んでみてください。もしくはプリントアウトしてお風呂の壁に張って毎日ながめてみてください。特に後半部分、急にせっかちになっていく展開に落ち着きのなさを感じてくるはずです。

で、お湯につかりながら考えることは、字数を増やさず他にいい書き換えはできないものかと、頭の中でリモコンの拭き掃除に際しての行動のシュミレーションなぞをしつつ、添削先生になってしまうのである。

とりあえずこの注意書きはリモコンの拭き掃除についての注意だから、湿った布を使ってほしいことをまずもって伝えなくてはならぬ。しかし現代においては常に「それはなぜか」という問いが出されるものであるから、乾いた布だと液晶の表示が乱れてしまうからなのだと明記せねばなるまい。そして心配性な消費者に対しては乱れた表示も放置をすれば正常な表示に戻ることをいっておかねばなるまいし、さらには「表示の乱れは誤動作を誘発するのではあるまいか」という懸念も早急に払拭せねばなるまいから、そんなことはないという旨も表記せねばなるまい、ああ、限定されたスペースなのにあれもこれも書かねばなるまい、という担当部署の人の苦悩が思い浮かぶようではあるまいか。

この注意書きは、「表示が乱れても放置すればもどる」ことと「表示が乱れても器具の動作には異常ない」こととを表現しようとするのに、同じ「表示の乱れ」についていおうとしているからだろう、「その時は」で受けてしまってまずいことになってしまった。それぞれの述語は「もどる」と「異常ない」であって、それぞれは「いずれもどる」と「今も異常ない」ということなので、同じ「その時」に起こることではない。想定される消費者の行動とそれにともなう疑問を単純に時系列で並べ、しかも中途半端に指示代名詞を使ったもんだから、全体がわちゃーになってしまったのだなあ、などと、まあこのようなことを湯船につかりながら考えてしまうのである。

今日の記事ではじめてこの注意書きをみた読者のみなさまに、今この文章の解析話が関心もって読まれると思っちゃないけど、お風呂という文字の少ない場所での文章というのは、ここまでつつかれるほどにくりかえしくりかえしくりかえし読まれるのである。

かくいうぼくも、書きたいことを一気に詰め込みすぎてしまって、修飾語、修飾節だらけの読みにくいことこの上なしな文章をよく書いているわけで、こういう文章というのはむしろ親しみがわくというのか、同情することしきりになるのである。注意書きという無味乾燥なものに妙な人間臭さがにじみでてきて、なんか最後はやっつけで「エイヤッ」になってしまった担当の人の気分が伝わってくるようで、むしろ味わい深さまである気がしてくるわけだけど、でもね、そんなガス器具会社の担当者の心の機微などをお風呂では考えたくないのである、毎度毎度。お風呂では体とともに頭も休めたいのに、それでも頭を使えというなら笑点を見ているぐらいがちょうどいいんである。

解決策としては、このシールをひっぺがすことでほぼ完了となってしまうけれども、そういう身もフタもない、今日の記事がまるで意味のなくなるようなことを言っちゃダメ。だからぼくはちゃんと考えました。

「ご注意」
リモコン表面の拭き掃除の
時は湿った布を使用してく
ださい。乾いた布は液晶表
示が乱れます。その時は放
置すると正常にもどり、器
具の動作には異常ありませ
ん。

     ↓↓↓↓↓↓

「ご注意」(改稿案)
リモコン表面を乾いた布で
拭き掃除をすると液晶表示
が乱れるので湿った布でし
てください。表示が乱れて
もしばらくすれば正常にも
どります。器具の動作にも
異常ありません。

こんなんでどうでしょうか。字数はちょびっと増えたけど、行数は増えていないからよしとしよう。なんか「掃除をしろ」といわれているようで、説教臭さが増した気がしないでもないけど、でももうこの際しかたがないのである。で、これを上からマジックで書けばよろしいんではないんでしょうかと思うんですけどどうでしょうか。

って、そんなことしたらもっと目につく注意書きになってさらにイライラ度が高まりそうだね。だいたいウチの風呂なんだし、もうわかっとるっちゅうねん。お母ちゃんに言ってやっぱりシールはがすか・・・。

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2006年12月 5日 (火)

ヅラにしました

Topmini_31 当ブログの題『徒ら草』の読みを、「いたずらぐさ」から「いたづらぐさ」に変えた。今さらながらに古語辞典を見てみたら、「徒ら」は「いたづら=いとうつら(最空)が語源か。役に立たないさま。なんのかいもないさま。無益」だそうで、これにしたがうならイタヅラのほうがよい。

現代かな表記では、もちろんこれまでどおりの「いたずら」で正しいんだけど、このズとヅ、ジとヂは結構ゆれがある。基本的にズとジで書くわけだけども、たとえば「お小遣い=おこづかい」「鼻血=はなぢ」などと、ツとチがにごる言葉はヅとヂで書くことも少なくないと思いきや、「地震」は「じしん」であるし、「新妻」「稲妻」はそれぞれ「にいづま」「いなずま」と、原則があるようなないようなことになっている。

日本語の表記は大変難しい。この「難しい」も、口では「むつかしい」とも言うから、それのにごりでワープロで「むづかしい」と打っても「難しい」とは変換されない。「難しい」は「むつかしい/むずかしい」であって「むづかしい」ではない。ややこやしい。

さて、日本語のムヅカシイ表記には、これという決定的な原則が立てられているわけでもなく、どんな原則を立てても、きっと例外は出てくる。言葉は生きものみたいなものだからしかたのないことでもある。そして、この例外もよくみてみると「慣用」であったり、慣れの部分が強くて、良くいえば柔軟、悪くいえば趣味的なものだ。複合語なんかの場合、「語源にあたれば」などと言い出したら、その言葉の語源を知らなければ表記できないことになって、それはそれで無用な知識偏重話になる。かといって、チとツからの変化も含めて、なんでもかんでもジとズにすればいいというものでもない。

『徒ら草』は、随筆の古典『徒然草』に、冒頭の意味での「徒ら」と「悪戯」とをかけて作ったもの。はたして、かなの表記が趣味的なことであるとするなら、現代語の「悪戯」は「いたずら」でもう慣れてしまっているからいいものの、「徒ら」のほうはせっかくの古めかしい表現なわけなんだから、このブログの『徒ら草』の読みを、「いたずらぐさ」から古式ゆかしく「いたづらぐさ」に、「ズラ」から「ヅラ」へと書き直そうと思った次第。けっして、ぼくが抜け毛に悩んで「ヅラ」にしたという話ではありませんよ。

今日の話はそれだけのことなんだけども、ちなみに、ぼくはこの「徒ら草」という言葉をワープロで打つときは、いちいち「いたずらぐさ」と打つのも面倒なんで、「とらくさ」と打って変換している。おいおい。ここまでくるともう、「なんだかなあ」と、かとうあいにでなく阿藤快につっこまれそうな話になってくるのである。

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2006年4月20日 (木)

ごとーび

Top_27このブログを始めた時、「気が向いたら記事を書く」というのもいいけど、掲載のテンポをある程度決めたほうが自分のサボりぐせの歯止めになるだろうし、読者の利便にも資するだろうということで、「最低週二回、火・金のゴミの日には必ず記事を掲載」と勝手に決めていた。

んだけど、年間ざっと百本。うーん、これは無理ね、と、しばらくして、五日にいっぺんの「五十日(ゴトオビ)」、つまり5と0がつく日に掲載していくことに勝手にあらためた。ならば、月六本、年間七十二本、「ゴミの日掲載」に比べて四分の三になる。五日も待てない時事的な記事も随時掲載していくから、もう少し多くなるけど、でもまあ、無理と思うまでこれでやっていくことにしたのである。そして、そうすることにしてから二、三ヶ月。まだいけそう。

本記事ではないが、右隣の『ロック万歳』のコーナー。こちらは本記事よりももしかしたら気合いの入った文章なんではないかと本人は思うわけなのであるが、こちらは五十日に限らず気が向いたらポコポコと掲載している。でも、これはいずれ本文記事にまとめるかして、「下まで長~い表示」を考え直さにゃなるまいのう。

ところで、「ゴトオビ」の漢字表記。パッと思いつく「五十日」では「ごじゅうにち」だし、なんかしっくりこない。もしかしたら他の書きかたがあるのかも、と調べてみたら、辞書には素直に「五十日」とあった。なーんだ、ふーん、そうか。

でも、「このブログは五十日ごとに記事を更新します」と読み仮名なしで書いたら、「『ごじゅうにち』ごとの更新だなんて、まあなんてのんびりなブログなんでしょ」と普通は誤解されるよね。

で、ネットをいろいろと検索してみたら、「五等日」と書いているものが結構あった。なるほど。当て字だとしても「五等日」のほうが、意味からいって気が利いている。

でも、これでは読み仮名が「ごとうび」。長母音の「お」と「う」がごっちゃ。辞書では調べられません。うーん、でもこれは長母音を発音どーり長音符「ー」で書くよーに表記法を改めれば、こんな混乱はないんだよなー。ごとーび。言文一致の日はまだとーいとゆーことか・・・。

Gotohbi

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2006年2月25日 (土)

風速毎秒○○メートル

Top_13昨年末に山形で起きたJR羽越線の脱線事故では、事故当時「風速毎秒35メートルの風」が吹いていたといわれている。このように、風速はふつう秒速で表わされる。しかしこれでは、ふつうの人にはピンとこないんではなかろうか。ここは「風速毎時126キロメートル」と時速で表わしたほうが、いかにすごい風が吹いていたのか、より多くの人にわかりやすいはずだ。

台風が来ると、「今回の台風○○号は風速40メートルの強い風が吹き…」などとニュースでやる。僕はそう聞くと、頭の中で3.6をかけて、単位をキロメートルに変えて、「ざっと140キロか。140キロといえば、若かりしころ、高速を140キロでぶっ飛ばしたことがあったなあ。確かにあの時はハンドルがかなり揺れたよなあ」などと、場違いなハイウェイスター気分にひたるのである。この時の「頭の中での秒速から時速への換算作業」というのは、ハイウェイスターの回想ともども、とても無駄なことだと僕は思うのである(ちなみに、ハイウェイスターだったこの時の僕はスピード違反で捕まった。みなさん、くれぐれも安全運転を心がけましょう)。

何年か前、日本を抜けて朝鮮半島まで台風が襲った時、テレビニュースで韓国のニュース映像が流れていたことがあった。その時、むこうの台風情報番組が映っていた。画面をよく見てみると、むこうでは台風の風速を時速で表わしていた。やればできるじゃないか。って、まあ、そりゃそうだ。その気になれば、今日からでもできることだわね、日本でも。

多くの人にとって、車に乗った時に窓を開けたり手を出したりした経験から、「時速○○キロメートルの風」というのは感覚的にわかりやすいはずである。車がそんなに普及してない時代に「風速は秒速で表わす」と決めたのかもしれないけども、感覚的なレベルでは結局のところ定着していない秒速に気象庁もこだわることはないだろう。感覚的にもっとわかりやすい時速にさっさと変えていただきたいものである。

もしかして、気象庁の人たちが乗る車のスピードメーターは、特別仕様の「秒速表示」になっているとかなんかねえ。それならそれでしかたがないのかもしれ・・・、んなわけない。

Byohsoku_2

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2006年1月17日 (火)

あしげく

Satomi3_1このブログで僕は、言葉の間違いや誤用を取り上げてネチネチと粘着質な文章をいくつかしたためているが、当然僕にだって、間違えて覚えたり勘違いして使っている言葉は、当人が気づいてないだけでそりゃあいくらでもあるだろう。

以前、ちょっとした縁があって京都の地域雑誌にエッセイめいたものを書いたことがある。その際、「あししげく」とするべきところを「あしげく」と書いてしまった。書いてしまった、といっても、できあがった雑誌を母に見せた際に指摘されて初めて気づいたわけなんで、「思いこんでいた」と言うべきなんだが、この「あしげく」は編集の人の目をさらりと通り抜けて活字になってしまったわけである。ここは「足繁く」と、賢げに見せようと虚勢を張って漢字で書こうとしていれば間違いがなかったものを、と残念至極であった。

New_japanese「あししげく」を「あしげく」と間違えている人は結構あるんでないかと思い、検索してみた。すると千件以上のヒットがある。かなりの数だ。少なくない人のこの間違いの理由は「あししげく」では「し」が連続して発音しにくいからということだろう。

「あししげく」という言葉はあまり頻繁には使われる言葉でないんで、その間違いの「あしげく」が辞書に載るようになることはこの先もしばらくないだろうと思う。しかし、「あししげく」では言いにくいがゆえ、「あらたしい」が「あたらしい」になったように、「あしげく」が幅をきかせるようになる可能性がないわけではない。

ネットの発達でいまや言葉のやりとりは文字による読み書きが一気に増大したが、それでもこうした間違いかたを思うにつけ、言葉の基本はやっぱり口でしゃべり耳から聞くものなんだなあ、とあらためて思う次第である。

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2006年1月13日 (金)

「学生」なのに

Top_6最近、大学生のことを「生徒」と言うのを耳にすることがやけに多い。大学生自らが自分たちのことを「生徒」と言うにいたっては、ましてや大学の教員がそう言うにいたっては、もうなんともはや、である。大学生は「学生」ですよ、学生のみなさん!

今の大学が「高校化」しているのはなんとなくわかる。僕たちの頃でも、成績が悪いからといって大学から保護者のところに連絡が行ったりしたものだし(ウチの母親は郵送されてきたその連絡票を見て「なにこれ!? あんたは高校に行ってるのか?」と驚嘆して下宿先に電話をしてきた)、当時すでに「大学のレジャーランド化」と言われていたものである。時がくだって、大学が「最高学府」にふさわしい所になってきたとは聞いてないし、大学全入時代を目の前にした今の状況は推して知るべし、といったところだろう。

にしてもである。だからといって、大学生を、高校生・中学生への言いかたである「生徒」と言うのはいかがなものか。僕には、大学生のことを「生徒」と言う人にも、そう言われてスルーしてしまう大学生にも、なんといいましょうか、「学」に関わる名称だから敢えてこう言わせてもらうけど、とどのつまりが、あるべき教養を感じることができないのである。

教授や講師、保母さん・保父さん(最近では「保育士」か)・・・、諸々の「教える側」の人を言うのに「先生」とまとめて言うことができるが、一方の「教えられる側」にそれに見合う一般的な言葉が見当たらない。これがこうした誤用の広まる理由の一つになるのかもしれない。Kohokohka_1

それで、大学生を言うのに、間違いとはいえ、最も守備範囲の広そうな「生徒」という言葉が選ばれているんだろうし、大学の「高校化」がそれをさらに後押しもするんだろう。

しかしなあ。高校生や中学生のことを「児童」とはさすがに言わないでしょう? じゃあ、ぜひ、大学生のことは「学生」と言いましょう!

・・・と、ここでいくら嘆いていても、止まらない世の流れなのである。トホホ。

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2006年1月 3日 (火)

天国と極楽

Satomi4_4 亡くなった人のことを言うのに、最近とみに耳にするようになった「天国に行かれた○○さん」という言い回し。ワイドショーのような俗情の塊のみたいなところでの言い回しならまだ笑って済ませられようものだが、なんだか今やいろんなところで耳にする。

日本人の多くはまだ仏式の葬儀だろうから、亡くなった人の多くは極楽へ行っているはず。天国へはキリスト教(やその他の宗教)の人たちが行っていることだろう。亡くなった「○○さん」は「天国に行かれた・・・」と呼びかけられて、おそらく極楽で「あれまっ?」と思っているんじゃなかろうか(まさか地獄ではあるまいね)。

拙僧も僧侶の身として、無節操な欧米崇拝の波はここまできたか、とこうした発言を苦々しく思っているわけだが、布教をサボってきたツケだと考えればこちらの反省する点も少なくないわけで、ただ脱力しているだけではこれまた阿弥陀さんに申しわけない。

以前、友人で浄土真宗の寺の子の結婚式に出た時、彼のご尊父はもう亡くなられていて、当然阿弥陀さんのモトへ行かれたはずなのだが、結婚式の司会者は「天国のお父様も今日の日を喜んでおられることでしょう」とやってしまったもんだから、最高に泣けるシーンで僕は一人心の中で『吉本新喜劇』のようにコケてしまった。さしずめ桑原和男なら「神様ぁ~~」な気分であった。

それにしても、なにも極楽は温泉につかった時に感じるだけのところではないのにねえ。

そうそう、温泉で思い出した。

一年程前だったろうか、高野山のある寺が温泉を掘り当てるために自坊内を掘削した結果とうとう掘り当てた、というニュースをやっていた。そこの住職は掘り当てた勢いで、観光地化を渋る周囲の寺の反対を押し切って宿舎も建て替え、さらには「温泉のある寺」として旅行会社への売り込みも相当なもので、見るからにあぶらぎった感じの人だった。寺の弟子たちには部屋の値段や料理の説明を覚えてもらうなど、「修行にも色々あるものよのう」と僕は妙な感心をしてしまった。僕もお経に行く時、「お経の配達に行ってくるでねえ」などと軽口を叩いたりするが、そんな冗談のノリをまさか真剣にやっているお坊さんがいようとは。しかもテレビカメラの前で。

で、湯船に初めてお湯をひいて住職が喜び勇んでお湯につかったその瞬間のこと。思わず住職は「天国やなあ~」と唸ってしまったわけなんです。ありゃりゃ~。馬脚を一気にあらわしてしまったわけなんです。その瞬間をカメラが見逃すはずがない。ディレクターは「もらったあ!」とコブシを握ったことだろうね(もしかして取材中からの感触で「期待通り」だったのかも)。直後に「あっ、『極楽』やったなあ」と照れ笑いをしながらゴマカそうとしたものの、時すでに遅し。1

まあ、そんな彼も念仏を称えさえすれば阿弥陀さんは許してくれるわけでなんともルーズな話ではあるけれども、彼のような人とは寺の人間としては僕はあまりお近づきになりたくない。

さて、そんな話はおいといて、さっさと今日の話をまとめると、きっと、「極楽へ行かれた○○さん」というのは耳にナジミが減ってきた分、言い回しとしては「古臭い」とかナントカカントカで特に若い人なんかには違和感があるのだろうと思う。というわけで、文句を言ってばかりもいられないので、こんなのでどうでしょうか。

「あの世にいかれた○○さんは草葉の陰から喜んでおられることでしょう。」

・・・これでもやっぱりダメ? でも「天国へ行かれた・・・」なんて言い回しをしている人には、万が一にも地獄に落ちた時、極楽から蜘蛛の糸が垂れてこないかもしれませんよ。

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